3年前の夏、私は紆余曲折。正真正銘無一文になった。自分の責任に他ならないので親含め、誰にも話さなかった。
そのせいで徳島県の秘境の西祖谷という地域でむせ返るような暑さの中、スコップを持って穴掘りをしていた時期がある。
わずか4週間、日当にして6000円前後だったと思う。それでも当時は大童になり藁にも縋る想いでありつけた仕事だった。
お金がもらえればそれでよかったのだが、その4週間は私にとってとても貴重な経験となった。
よくわからない紹介会社との電話のみで採用。
現場に着くと私と同じく日雇いの労働者が7人、現場の管理者が1人いた。
水道管を埋設するための穴をひたすら掘り続ける仕事だった。一般的には重機を使う作業だが、重機が入らないところなので人力で掘り進めるのだ。
そこにいた作業員を見てすぐに、私がこれまで関わってきた人とは違う世界の人達だと気が付く。
ボロボロに破けた作業着から除く刺青、大きな傷跡、歯も殆ど無く、目はあまり見えてないのか話すときは目が合わない。
酒とたばこの匂い。現場で酒を飲んでいる人もいた。
言葉は悪いが、これが底辺なのかと思った。
スコップと長靴が渡された。「あとは見て覚えて」と管理者は言い残し、すぐに現場を後にした。
自己紹介の時間なども無くすぐに作業に取り掛かった。
わけも分からないまま、他の作業員に続いて穴を掘る。
一輪車で土砂を運んだり、その他の雑用など。
汗が全身から吹き出す。頭から蒸発した汗がヘルメットに溜まり、下を向くとドバッと落ちて目に染みる。汗に濡れた土は一瞬にして元の色に戻る。
作業中もほかの作業員たちは真面目に取り組んではいるのだが、話し方はもごもごしていて私に指示を出すにも何を言っているのか分からない。
聞き返すと怒鳴られ、時には石や土を投げられたりスコップでしばかれたりもした。
親父にもスコップでぶたれたことは無いのに。
そんな彼等は記憶力も優れないのか休憩時間になると先ほどの怒りなど忘れたようにたばこ休憩の仲間に入れてくれた。
休憩中に談笑しても彼等はお互いのプライベートには踏み込まない。なにか暗黙の了解があるのだろうと感じた。
私もあまり質問などもしない。適当な相槌でその場を乗り切った。
私にとってこの仕事はあくまで繋ぎの仕事であり、彼等とは違う人間であるという意識があった。
3日に1人くらいの割合で同じような作業員が入ってくるが、次の日に来ないことなんて当たり前だった。
そんな仕事を何日かこなし2週間くらい経った時には私はそれなりに仲間として受け入れられたように感じていた。
休憩中は現場の水道で腕と頭を洗い暑さを凌ぐ。タバコに頭から滴る汗がついてしまいそうになる。手のひらを焼くような地べたに座り込んで、何人かで談笑していた時、一人が私に「こんなところさっさと出て行けよ。抜け出せなくなるから」と冗談交じりにいたずらな笑顔で言ってきた。
セミの声が勢いを増す。
ある日、昔からいる作業員のAが朝の時点でいなかった。
日払いの作業員にとっては1日仕事を休むということは、よっぽどのことがない限りありえなかった。
彼等は通信手段を持っていないため、休むには必ず前日に報告しないといけないのだ。
休憩時間に他の作業員に聞いても、誰もAの行方を知らない。
それから何日か経ったある日、他の作業員からAが自宅で一人で亡くなっていたことを聞かされた。
しかし彼についての話を誰もしたがらないのか、砂煙の地べたに座り込んで煙草を吸っているときも沈黙のままだ。
誰かが亡くなることが珍しくないのか。若しくは他人の領域に踏み込まない暗黙の了解の延長戦上にある気遣いなのか。私には分からず妙に腹が立った。
だがある時、一人がAについての昔の話をした。
Aはかつては一般企業に勤めて営業マンをしていたそうだ。その仕事のストレスで精神を病んでお酒に逃避したらしい。奥さん、子供には愛想つかされ一人になり。
交通警備や職人など様々な仕事をしたらしいが、お酒で長くは続かず、見つけたのがこの日雇いの穴掘りだという。
私はドラマの世界の話だと思っていたようなことが自分の真横で現実に起きていたという事実に恐怖した。
私は「自宅で一人なんて可哀想ですね。」と口にした。
すると一緒に休憩しているうちの一人が「それは違うぞ。」と語気を強めて私に言った。私はびっくりしたが彼は「あいつは自宅で死んだからすぐに気づいてもらえたんだ。幸せ者だ。ここがとんでもない場所だと思っているかもしれないけれど、それは間違っているからな」と続けた。
私は言い返せず。落とした灰が風にばらけて穴の底に落ちていくのを見ていた。
「ここは俺らみたいな人間にとっては楽園なんだよ」と誰かが言った。
私は恥ずかしい気持ちになりながら作業に戻った。
私が底辺、地獄だと思っていたこの場所は、彼等にとっては楽園だった。
私が彼等を勝手に底辺だと見下していたのを彼等は見抜いていた。
たった数週間働いただけの22歳の餓鬼に、亡くなった仲間の一人が底辺で人生を終えたと思われるのだけは許せなかったのだろう。
考えてみればそうだ。仕事の無くなった私には、自己破産、生活保護、犯罪に走るなど生きる方法はいくつかあったはずだ。それでもそれが嫌だからこの現場に来たわけだ。
人によっては死ぬという選択を取る人もいるだろう。そういう意味で言えば確かに当時の私の現状においては最良の選択。まさに楽園だったと言えるだろう。
それから数日して私は次の就職先が決まったためこの楽園を去った。
私の最後の日も彼らは普段と変わらなかった。
「頑張れよ」「もう会うことはないな」と言ってくれた。彼等なりの優しい別れの言葉だったのだろう。
途中で行方不明になった作業員達は、私の言う底にいってしまったのだろうか。
底を知らないのは幸せなのだ。
彼等はそれだけ教えてくれた。
彼等がまだ生きているか知るすべもないが、どこかで生きていると願いたい。
あの夏。私は本当にお金が無く。仕事はハードで、朝昼ご飯は買えず。夕食はスーパーの半額の糸を引く酸っぱい弁当。そんな生活がいつまで続くのか分からない恐怖が人生で最も辛かった。
ある日の現場の帰り道、私は自身の将来に絶望し諦めや情けなさの感情を抱えて、何度も大歩危の大きな橋から吉野川の激流を覗いた。濁りや泡やゴミで底は見えなかった。
当時の私は劣悪な現場を相対的に底辺だと決めつけ、川の下にこそ楽園があるのかも知れないと半ば本気で考えていた。
今振り返ると、あの橋と川の境界が最後の楽園と底の境界だったと私には思えてならない。