ぷらだを着た悪魔2を見た感想
ファッションは自由って言うのやめませんか?
プラダを着た悪魔2を観た。
少々のネタバレを含むかもしれませんが、これを読んでから観るのも面白いかもしれない。
観終わったあと、ずっと頭に残ったのは綺麗だった。でも、おしゃれだった。でもなくやっぱりファッションって全然自由じゃないなという確信。
サイズ感。パンツの太さ。ドレスの丈。ヒールの高さ。時計の径。ベルトの有無。
厄介なことに、皆んな自分で選んでいると思っているのだ。1作目のアンディのセルリアンのニットについてミランダが触れる場面と同じ。
おまぬけなインフルエンサーが今季はこれと言えば、昨日まで興味のなかった服も突然欲しくなる。
魚群探知機に映るイワシの群れのように同じ方向へ一斉に動く。
だけど本人達は自由だと思っている。もちろん私もその中にいるだtろう。
古いフィッシングジャケットを見て興奮するし、革靴のトゥの形や縫製で一喜一憂する。
今ではPatagoniaやモンベルなどのファッション性とはあまり縁の無い服を着て自然の中でお魚を見て大喜びしているだけの人間だ。
ハイブランドには糞ほどにも興味がない。私の人生の文脈の中に全く関与していないからだ。
しかしながらファッションそのものを否定したい訳じゃない。
むしろかなり好きだ。悔しいほどに。
この映画が面白いのは、ファッションをただのおしゃれとして描いていないところだと思う。
誰が支配して、誰が文法を理解して、誰が背伸びして、誰が見抜かれているか。
それが全てで、ミランダが特にそうだろう。
彼女は服を着ているというより、権力そのものを着ていた。
Runway編集部にいる彼女は、制度そのもの。
雑誌の編集長という立場。彼女は読む側ではなく、読ませる側の人間。それは雑誌だけではなくファッションもそうなのだと私は感じた。
肩のライン。ヒールの音。コートのドレープ、ジュエリーの置き方。
全部が間違えるな。と言っているようなそんな感じだ。
この映画のインテリアに関して触れている人は少ないのではないだろうか。
前作での彼女のオフィスのアクセントカラーは赤だったのに対して、今作ではオレンジ色。ざらっとしたファブリックや木の質感など、艶感が減り 少し柔らかい印象になっている。
印象的だったのは、彼女がイタリアの夜の街を歩くシーン。
ミランダは黒のスパンコールに鮮やかなたくさんのクリスタルがちりばめられた美しいオーバーコートを着ていた。ドルガバだろうか?よくは分からないがそんな雰囲気。
かなりイタリア的な特徴を持った服。
石畳。歴史的な古い建物。湿った夜風。暖色の灯り。
その中を、黒いドレスで静かに歩くミランダ。あのシーンを見ながら思った。
結局はファッションの王者も、歴史には勝てずに溶け込むしかない。
数百年前の石造りの建物の前を流行の中心にいる権力を持った女性が、流行より長く残る街の中を歩いている。
ニューヨークでは女王みたいな彼女も、イタリアの古い街並みの中では“風景の一部”になる。
かなり皮肉だ。
そして若作りしていない美しさ。
皺も。白髪も。年齢も。全てそのまま武器になっている。
ファッション業界は常に次を求める世界なのに結局人が圧倒されるのは、
古い街や歴史や建築や時間の蓄積だったりする。
だからミランダが映える。
彼女自身もある意味ヴィンテージ化しているのだ。
若さや流行ではなく、
積み重ねた審美眼そのものが存在感になっている。
服を見せているのではなく、その人の歩き方や、街との馴染み方が服を成立させてる。
逆に言うと、そこまで行けないと高級服なんてただのコスプレになる。
東京の街中やSNSでよく見る厚顔無恥な顔にハイブランドのロゴだけついてる人間のことだ。
最近のSNSは、若く見えることに必死過ぎる。
しかしミランダは、若さを延命するのではなく、時間を味方にしている。
一方でアンディは、文法を覚えてしまった人間とでもいうべきか。
前作では彼女の目は私たちの目であり、異様なファッション業界を私たちはアンディを通して除いていたような映画だった。
前作ではこんな世界くだらない。と言っていた人間だ、業界の内側に入り違いが分かるようになってしまった。
ここがこの映画の残酷なところだと思う。
一度違いが見えるようになると、人は昔には戻れない。
音楽も。カメラも。建築も。釣りも全てそう。
知らなかった頃の感覚には戻れない。
前作の青いセーターのシーンはとくに有名だが、前作の彼女は私たち側の人間。
私は自由ですと思ってる人間も、実は巨大な文法の中にいる。
今作での彼女の服は前作と違い、理解している側の人間の服になっている。
古着屋で買ったというゴルチエのセットアップにコーチのメッセンジャーバッグ、
なんのシーンだったか忘れたが黒いシルクベルベッドのジャンプスーツが印象的だった。
ラストシーンではアンディ、ナイジェル、ミランダ部屋が同じ大きさかつ横に並べるように映り、アンディは前作でミランダにこき下ろされたセルリアンブルーの同じ編み方のニットを着用していた。
これが何を意味するのかははっきりと分からないが、ラグジュアリーの陳腐化と大衆化への皮肉?そうともとれるかもしれないが。
私の感覚ではラグジュアリーが大衆化したのではなく、大衆化まで含めてラグジュアリーの商売になった。といった感じなのではないだろうか。
今作のエミリーは特に面白い。
彼女の服は、上品というより攻撃性そのもの。
普通ならやり過ぎなジュエリーも、強過ぎるシルエットも、洗練されていて、彼女が着ると成立するような。私は感じの良い人間になる気はありません。でも勝つ気はあります。というような服。
象徴的なのがティファニーの巨大なエメラルドカットのアクアマリンと巨大なダイヤのついたネックレスは、映画内で見るだけでもとんでもない存在感であり非常に美しい。
エミリーはディオールの幹部になっていた。彼女は葬儀のシーンでもディオールのヘッドドレスを身に着け、マリア期のミニドレス?を着用して参列している。その時の装いがディオールらしくて印象に残った。
ナイジェルはというと、服を文化として着ている。今作も前作も彼の美意識は歴史的に裏打ちされたもの。
ミランダが服を読ませる側と言ったが、ナイジェルはまさに読む側。
高い服を知っているだけじゃなく、なぜそれが美しいのか知っている。
だから派手でも下品にならない。知識があるからだ。
他のキャラクターが時代の波や価値観に左右される中、彼の着るスーツだけはずっとトラディショナルで知的なユーモアをまとっている。
人類は知識のない派手さを痛いと呼ぶ。
あとこの映画で印象的だったのは、作中に何度もあるパーティのシーンだ。
特にガラシーンでのミランダの真っ赤なドレスは見る側に強烈な印象を与えるだろう。
ファッションに興味がない人が見れば、皆んな自由に着飾っているような世界に見えるのではないだろうか。
きらびやかで豪華絢爛な場に、高級で美しくてかわいいお洋服を自由に着た人がたくさん集まってファッションを楽しんでいる。
といった印象を持つことだろう。
でも見れば見るほど違うのだ。
歴史、文化、主賓、ゲスト、建物のデザイン。
それらに対して色数や素材感。肌見せ。シルエット。ジュエリー。ドレsコード。
全てが異常な精度で合わせられている。
詰まる所、自由な自己表現ではない。
超高度な制約の上で成立しているのだ。
音楽で言うならジャズのような感じだ。
自由に見えて実際は全員がコード進行を理解している。
知らない奴が混ざると一瞬で浮く。
前作のアンディはまさにその浮いている側だった。
厄介なのが、ただその制約を守るだけでも駄目なところだ。
TPOを守るだけだと、つまらない人になる。
だから皆んな一定のルールを押さえた上で他者に失礼にならない部分のそのほんの少しの余白で、外し、崩し、攻めるのだ。
そのほんの少しの余白で戦って自己表現するから美しく、上品な色気があるのかもしれない。
ファッションは自己表現というより、所属しながら差異を出す技術だと思う。
かなり不自由だ。だがそれは私たちがその制約を感知できていないだけ。
SNS的な自由なファッションというのは、好きなものを着ればいい。
服はなんでも着ていい。それは法的にはそうだ。
だがそれはファッションではない。おしゃれという物差しが絡むと、無知な自由はただ街中で意味もなく大声で叫んでいる変態と同じになる。
でも、この不自由があるから、人間性も出る。
全員裸なら差は消える。
しかし制約があるから、育ち。教養。欲望。虚栄心。自信。コンプレックス。
全部が服から漏れてくる。だからこの映画のパーティシーンは、社交場というよりも
キャラクターが服を通して漏れ出しているシーンだった。
背筋が冷える。でも美しいのだ。
誤解をして欲しくないのが、単に綺麗を目指してる訳じゃないということ。
誰が主役か、誰が金を持ってるか、誰が文化を持ってるか、どの国の空気か
、フォーマルか、芸術か、ビジネスか。
全部で正解が変わる。かなり面倒である。
例えば色数。
本当に権力のある場ほど、色数が減ることが多い。
黒。ネイビー。グレー。ボルドー。
逆に成金系や、新しく上がってきた層ほど、
ロゴ。派手色、分かりやすい宝飾を使いやすい。
なぜなら、私は価値があります。を説明しないといけないから。
華麗なるギャツビーのピンクスーツのようなもの。
本当に強い権力側は説明不要なのだ。
だからミランダはド派手なドレスを着ても静か。
素材感もカシミヤ。シルク。ウール。
高級素材は写真じゃ伝わりにくい。近づける人間だけが理解できる価値でかなり階級的だ。
肌見せも単純な露出じゃない。
例えば、肩を出す、背中を開ける、脚を見せる
全部意味が違う。年齢や立場でも変わる。
若いモデルの露出と、ミランダの露出は全く意味が違う。
前者は若さ、後者は余裕。
シルエットも面白い。
仕事中のミランダのような直線的なシルエッなら知性や権威。
パーティ中の曲線的なシルエットなら柔らかさや官能。
肩を強くすると支配感。
落とすとリラックス。
ドレスコードは、服装のルールではなく、空気を読めるかのテストに近い。
完全遵守だと普通、崩し過ぎると場違い
この映画ではその数ミリの差で戦ってるのだから狂気のパーティだ。
しかしこれは現実でもそう。
例えば現場帰りの汚れたワークウェア。
新人が着るとただの汚れ。
ベテランが着ると現場をやってきた人。
なんとなくおしゃれと思って着てる人なら、憧れをまとっただけの不潔な人。
同じ汚れでも意味が違う。
よくヴィンテージのデニムだ大戦モデルだのレアスニーカーだの本物か偽物かなどと大騒ぎしているコレクターを見かけるが、本人がそれらの文脈と全く関係が無い以上アイテムは本物でも、本人は偽物なのだからどちらでもいいのだ。
ファッションは服単体じゃなく、誰が、どこで、何の立場で着ているかまで含めて完成する。
この映画では恐ろしいことに、皆んながそのルールを明文化せずに共有してる。
結局、ファッションは自由か?と聞かれたら、私はおそらくこう答える。
自由ではない。
かなり不自由だ。
でも、その不自由の中で、
何を残すか。
どこを崩すか。
何を取捨選択するか。
そこにその人の生き方が出る。
本当に格好良い人とは、服を着飾っている人とは違う。
人生が服に滲んでしまっている人だと思う。少なからずこの映画ではそうだ。
ミランダ、アンディ、エミリーそれぞれの部屋のインテリアまでキャラクターに合わせた非常に面白い仕掛けが含まれているところからもファッションが服単体ではないということの証明だろう。
私は新品みたいな服より、少しくたびれた服の方が好きだ。
日で色の抜けたキャップや多少の穴や擦れたジャケット。
少なくともその方が、土臭い田舎で育った過去も今もを着てる感じがするからである。
しかしこれもまたそのままオーセンティックバー行くと、今度は空間との文脈がズレる。
決着!奢り奢られ論争
ネット上で荒れに荒れているこの問題。
私は白黒つけれられる
とはいえ、みんな白黒は付いてる。
というのも、それぞれの人達がそれぞれの目線で語り合っているためだ。例えるなら1+1の答えを探っているのに、1のフォントはこれがかっこいい!、足すと呼ぶの?プラスと呼ぶ方が伝わる人が多いよ。などを自由に言い合っているだけだからだ。
もっとポップに言うなら、大乱闘スマッシュブラザーズを皆がルールも分からずに戦ってる状態のように私には思えた。
ピカチュウは攻撃はターン制だと思ってる。
マリオは相手の頭を踏めば勝ちだと思ってる。
この6人の同時対戦、大乱闘おごりおごられ論争に登場するキャラクター紹介をするならばこうだ。
①昭和レガシーおじおば
文化的に奢ってきた 褒めてほしいだけで議論とは関係ない。
悪意は無いがOS古過ぎて互換性無いので無視されてる。
彼等は自分は奢る甲斐性のある男で、奢られるくらいの魅力のあるいい女だと思っている。
実際は大山のぶ代のドラえもんをリアタイしてたと自慢するくらいくだらない事を言っている。
私はドラえもん好きなので羨ましいが。
②恋愛マーケター
強キャラ。
奢ったほうがモテる。の一点突破。
これは奢ってくれる男性の方がモテるかどうか。と、特定の男性がモテたいと渇望している状況もセットの議論では正しい。
だから今回は関係無いのだ。
まさにポケモンルールでスマブラに参戦してるピカチュウ。ポケモンルールもあまり理解していない可能性すらある。
③差別主義者
男は奢るべきだ。と一貫して言っている。
ただの差別主義者 本人に悪意は無い。
男はor女は➕動詞➕べき構文を、したり顔で論じている。1番炎上する炎の使い手。
④構造分析者
主語が男になってることがまずいと言ってる。
今回は個人間の議論ではないので1番まともである。マリオ感がある。
⑤女の苦労提示者
女は出産や身だしなみなど男性より厳しい境遇にいるので男は奢るべきという人達。
個人間の問題に生物史レベルの重さを背負わせるラスボス。
反論=冷酷、同意=敗北という最強の布陣を敷いている。
彼等は出産しない女性を敵とみなさ発言も多々。
⑥経験談を語る人
キャラというよりはアイテム。
避け続けないと勝負にならない。
⑥を除き、全員その立場で言ってる事は白黒付いてる。
異種格闘技戦がそれぞれのルールで行われて、俺の勝ち!私の勝ち!って皆んなが言ってる状態だ。
だからネット上ではルールを統一する必要がある。
私は、男は奢るべきか否か。この答えはネット上は否。
大前提として奢り奢られ論争は個人間のみの問題である。
公では属性で区別して〇〇するべきと言うのは差別発言以外の何でもない。
余談だが、区別と差別の違いも皆めちゃくちゃだ。
男と女を生物学的に分類する。これは区別だ。
その区別によって行動を制限したり不利益を与えることを差別と呼ぶ。
よくあるのはコンビニのトイレ。
男性は多目的トイレのみ。女性は女性専用と、多目的トイレの二つが使用できる。
これは差別ではあるが、合理的な理由が伴うので糾弾には至らない。
不平等な区別は存在する
だが不平等であることと、糾弾すべきであることは別問題だ。
話を戻す。
よく見かける反論。出産問題。弱者男性問題を提示してくる人が多い。
しかし、これらの事実から性別の優劣を決めたところで明日からどうにかなるわけでもない。
そもそも比較不能なものの比較である。
不公平な現実は男女それぞれに存在するが、
その不公平は他者に義務を請求する根拠にはならない。
異性に向けていいのは理解と共感まで。
この不公平の不満が向くべきは異性ではなく制度。
そらだけの熱意があるならば、今すぐスマホを叩く続けるのをやめて、スマブラのコントローラーも置いて、ゲームの倫理委員会。コンテンツ審査センターの門を高橋名人ばりに連打すべきなのだ。
四国横断
四国横断 無補給・野営の冒険記録
序章
この葉月、私は空前絶後の二十連休を手にした。
家でだらだら過ごすなんて一日も必要ない。決意したのは、以前から憧れていた「四国横断」だ。
本当は徳島県の剣山系から愛媛県の石鎚山系を縦走し、四国山地を越える計画を抱いていた。だが真夏の四国山地は水が枯れる。前例もなく、命の保証はない。秋か春でなければ叶わぬ夢。
そこで編み出したのが、自らのオリジナルプラン。
四国最東端から最西端まで、総距離372kmを一般道で繋ぎ、四国山地南麓を抜け高知市内を経由し、九日間の完全無補給・完全野営で踏破する旅。
ただし困ったことに、この二十連休が決まったのは出発のわずか二日前。装備の軽量化も戦略も不十分なまま、16kgのザックを背負い強行軍へと飛び込んだ。
八月一日。まるで護送車のように思える高速バスに揺られ、徳島県阿南市へ。さらに激しく揺れるバスを乗り継ぎ、徒歩二時間。ようやくスタート地点の四国最東端・蒲生田岬へ到着。
ザックの重みは、始まる前から体を痛めつけてくる。
岬の野営地はオーシャンフロントの芝生サイト。海を見下ろしながら井戸水で身体を洗い、テントへ潜り込む。
一日目
一日目の行程は、いきなりの60km。夜、太平洋の巨波がドラえもんの顔ほどある岩を転がす轟音が眠りを妨げる。うとうとしたかと思えば目が覚める。テントの外に広がるのは、ただ青紫の空と海だけだった。
――空と海で「空海」。遍路の始まりにふさわしい、運命的な景色。
私は不安と辛さに包まれながら、早くもスピリチュアルな領域に足を踏み入れていた。
遍路は「同行二人」、空海が常に共に歩くと言われている。だが私はスピリチュアルとは縁がない。最初に出会った地蔵に頭の中で繰り返した言葉は――
「頼むから、邪魔だけはするなよ。」
罰当たりだが、三度唱え倒した。
四国に暮らして二十八年。だが南東部は未踏の地だった。歩きながら、いつか室戸岬から巨大なカンパチを釣り上げたいと思う。
徳島南部を歩き抜ける。田園を越え、峠を越え、トンネルを抜ける。那賀川下流に至った頃には疲労困憊。さらに上流へと歩き倒し、美しい渓谷へ到達した。どこでも野営できそうな広さ。河原に降りてテントを設営し、汗と匂いの染み込んだ服を川で洗い流す。
2日目
三リットルの水を汲み、別府峡渓谷を目指す道すがら、世界一美しいと噂の「未来コンビニ」に出会った。朝霧立ちこめる渓谷に光が差し込み、赤とんぼが無数に舞う。筆舌に尽くしがたい光景。
だが別府峡の川は想像したほど綺麗ではない。野営し、また水浴びをして一日を終える。三日目のアルファ米が胃に重く、虚しさが胸に広がった。
三日目
別府峡から高知市内へ。行程はまたしても60km超。午前三時に出発し、香美市を抜け、午後四時に高知市街に辿り着く。
靴は足のむくみで擦れ、爪は剥がれ、豆が三つ。痛みで続行不能を考えたが、市内で同じMERRELL Moab3を新調。痛みを軽減させ、引きずる足で種崎千松公園へ。夜十時に到着。
完全無補給を掲げていたが、靴を買ったことで「食料無補給」に変わった。
ただ、このキャンプ場はゴキブリだらけ。三歩歩けば奴らが蠢き、蚊も多く、暑さも酷い。夜、足を二十箇所刺され、猛烈な痒みに悶えた。
四日目
午前三時、眠れぬまま出発。行程は短めで波川公園へ。靴は馴染み、痛みも軽減。剥がれた爪はアロンアルファで接着し、水ぶくれはナイフで切り裂いた。
波川公園では多くのキャンパーがBBQをしていた。漂う肉の匂いは拷問に近い。嗅覚は研ぎ澄まされ、ホルモンの脂が溢れ出すようにを舌から唾液が吹き出す。唾液が溢れ、テントに落ちる雫が汗か涎か分からなくなった。
五日目
再び50km超の行程。愛媛県に突入し、久万高原町・軍艦岩を目指す。幼き日の記憶にある川。だが仁淀川を遡上しても、仁淀ブルーは現れず、ブロッコリーのような深い緑のまま。
夕七時、ようやく軍艦岩に到着。川で水浴びをするが、どこか不気味。二週間前に人が亡くなった場所だと聞き、背筋が冷えた。
六日目
軍艦岩を発ち、すぐに豪雨と雷。PatagoniaのH2NoもGORE-TEXの靴も無力。冷たいBB弾のような雨が36.5度の情熱を奪う。
水を吸った靴とザックは史上最重量。必死に小田せせらぎの郷へ逃げ込み、道の駅でテントを張る。川はカフェオレ色に濁り、水量は倍。疲れ果て、そのまま眠った。
七日目
内子の「からり」へ。山を一つ越えるだけだが、蚊とメマトイの大群に発狂。バグネットの存在を思い出し、被って難を逃れる。
午後二時に到着。だが脚は限界に近い。筋肉痛はテーピングで誤魔化せても、関節の炎症はどうにもならない。時間は長く、退屈で、ベンチに座り日没を待った。
八日目
伊方町、佐田岬の付け根を目指す。弱い雨。濡れた衣類でザックは重く、脚は痙攣を繰り返す。
体臭は腐敗寸前。虫に群がられ、牛舎の牛のよう。愛媛に入ってからは景色も冴えず、気持ちは沈む。
須賀の森公園でキャンプ。隣のグループはまたしてもBBQ。どこから来たかと問われ、正直に「四国横断中」と答えると、彼らはドン引きした。それでも最後には応援の言葉をもらい、またアルファ米をかき込んだ。
九日目 ――終章
最終日。50kmの行程。激しい雨。だがもうザックの中身を気にする必要もない。
午前三時に歩き出し、道の駅「はなはな」には午前十一時到着。しらす丼に心揺れるが踏みとどまる。
伊方町の小さな集落を抜ける。幅90cmの石畳の道は、イタリアのアマルフィを思わせた。地元の老人に声をかけられ、送ってやると言われるも、歩みを止めず感謝だけ伝える。
やがて佐田岬灯台駐車場へ。暴風と豪雨。足元には荒れ狂う波。まるでラスボス戦。足先の感覚はなく、痙攣も止まらず、肩はザックの食い込みで後傾し変な音がなる。
だがアドレナリンが痛みを消した。最後のアップダウンを越え、ついに四国最西端・佐田岬灯台へ。
霧の向こう、広大な九州の影がうっすらと浮かんでいた。
最大の冒険だと思っていたこの横断が、海の向こうの広大さに比べれば、あまりに小さく感じられる。
それでも――私にとって忘れ得ぬ挑戦であり、確かな到達だった。
人生で初めて親知らずを抜いた話
人生で初めて親知らずを抜歯した話
親知らずは5年前に初めて生えた。左下の一本。
どうせ抜くならまとめて抜きたかったので、他の兄弟(歯)が生え揃うのを待っていたのだが、一向に生える気配がない。
それどころか、上の歯に関しては歯茎の中に存在すらしていなさそうだった。
それで、ようやく今になって思いつきで朝に予約し、夕方、仕事終わりに抜歯することにしたのだ。
ネットで適当に見つけた、ビルの2階にある歯医者。
節電のためなのか、院内はやたらと薄暗い。
受付と、2席ある拷問台のうち1つだけが、スポットライトのようにぼんやりと照らされていた。
カウンターの上には、書類などが乱雑に積み上げられている。
全体的に古びて、日に焼けた什器や設備に目が行った。
受付には、白髪で背の曲がったドクターが1人。
なぜか作業着を着ている。
ワンオペの歯医者なんて初めて見た。
とはいえ、私は5歳の時から歯医者に通っていない。
歯科衛生士や歯科助手になった友人たちの顔が一瞬浮かんだけれど、「まあ、こういうもんか」と自分に言い聞かせ、まずは一つ目の拷問台へ。
レントゲンを撮るらしい。
器具に取り付けられている、謎の透明のスティックを噛みなさいと言われる。
「どんな人間が、何日前に噛んだものなのか亅などと思いながらも、私は強がって、むしろ食い気味に食いついてやった。
顔面の裏表。目に見えない光線が照射される。
私の大きく発達した顎は、あっけなく素っ裸に。
続いて二つ目の拷問台へ座らされる。
老医はレントゲンを見ながら、かなり難しい顔をしている。
「かなり抜けにくい形状をしているから、相当引っ張らないといけないけど大丈夫?」と、私に聞いてきた。
大丈夫も何も、その物差しは私には無い。
その苦痛がどれほどなのか、想像すらできない。
だが、Noなど言えるはずもない。さっき変な強がりをかましたばかりなのだから。
老医は私の口を開き、菜箸くらいの長い注射器で麻酔を7発撃った。
しかも、リロードなし。
まるでコーヒーのハンドドリップのように、チュチュっと打ってくる。
部分麻酔なので意識が朦朧とするわけではないが、なぜか朦朧としようとしていた。
「痺れてきましたか?」
逆さまになった老医が聞いてくる。まるでアニメの拉致シーンみたいだ。
正直、そんなに痺れていない。
それを伝えると、老医は首をかしげた。
「……でも、やってみよう」
その言葉には、老いなど微塵も感じない。
まるでカリスマワンマンベンチャー社長みたいな力強さと、畏怖を感じさせた。
老医を信じてみることにする。
手始めに奥歯を押される。
「抜くのに押す」とは、どういう理屈なのか。
たこ焼きのように、くるくる回すのだろうか。
「痛かったら左手を挙げてね」
その言葉どおり、普通に痛かったので左手を挙げた。
老医は難しい顔をした。
いや、抜けにくい歯なのは、彼が一番わかっているはずだ。
ただ、痛いから手を挙げただけなのだ。
そうすることで何かより良い方法があるからそうさせたのだろうと思っていた。
「わかりました」
そう言うと、老医はおもむろに席を立ち、どこかへ消えた。
そして、クラシック音楽が流れ始める。
バッハの『G線上のアリア』だ。
私は「人に期待する癖」をやめないといけない。
老人に心理戦に持ち込ませてしまった。
戻ってきた老医は、再び親知らずを押し込んでくる。
どうやら、バールのようなものを使って歯を脱臼させようとしているらしい。
彼が作業着を着ていた理由が、ようやく理解できた。
これは手術ではなく工事だ。
もちろん「安全第一」で執り行われるのだろうと、私はまた期待した。
バールでこねくり回されたあと、棒の先で歯を挟み、
まるでマニュアル車のギアをLOWからTOPに入れるような感覚で引き抜きにかかる。
何度かその拷問に耐えた頃、
「ブチブチ」という音がバッハと重なり、耳の奥に響いた。
そのまま、ぶち抜いてゴールイン。
美人歯科衛生士にチェッカーフラッグでも振ってほしいところだが、
ここには無い。
「麻酔が切れたら、かなり痛いと思います」
そう言われ、「お大事に」と付け加えられた。
私は「ありがとうございました」と伝え、病院を出た。
駐車場まで歩く。
達成感のような、虚無感のような、何とも言えない感情を抱えながら。
麻酔が、今まさに一番効いている気がした。
さて。
今日は、何を食べようか。
命を燃やせ!
私は今年で28になる。アウトドア歴28年目とも言えるかもしれない。
アウトドア歴28年目とは、生まれた瞬間からとなるので野生児なのかと思われるかもしれないが、一応義務教育を修了している社会人である。
だから少々盛っている部分もあるが、等身大の私の話なんかを楽しめるような、教養深い風雅な人物を知らないのでそう言わせて欲しい。
この記事を書くに至ったのは、アウトドアしたいけどよく分からない。という質問をかなり頂くからだ。
巷では'"自然界隈"といったお洒落な人間が話題になっている。
私はその単語を添えると投稿が伸びることを知ってしまったので頻繁に投稿に織り交ぜている。
その自然界隈がアウトドアブームをよりかっこいい物にしてくれたからだろう。とてもありがたいことだ。
私はと言えば28年間田舎で育ち、暮らし学び争い遊び狂ってきた訳だ。
そんな私に、これからどのようにも化けよう瑞々しい大豆のような若者が私のような田舎者にぶつかってきてくれるのだ。
だが私は自然界隈でも大豆農家でもなく節分の鬼でもない。ただの田舎者なのだ。もっと言えばいくつか意味での而立目前にして、光を浴びないもやしのような人間だ。
母が私の名前に陸という漢字を当てたのは地に根を張って立派に育って欲しいと願ってだそうだ。
母よ。物理的に紫外線をしこたま浴びてきたにも関わらず、私はもやしになりました。
ただ瑞々しさだけは保っている。
とは言えこの自然界隈の牽引するアウトドアブームはもやし界隈にとってはありがたいし私に質問をくれるのも嬉しいものである。
ようやく本題に入るが、アウトドアってよく分からない。に対しての答えは、言葉の通りドアから外に出れば全てアウトドアだ。
ドアの外と言ってもトイレや子供部屋のドアではない、玄関のことだ。
ビジネスマン向けに言えばDoor to Doorのtoの部分である。
カフェや居酒屋のその延長として山や川や海があるだけで、そこに合わせた物を身につけたなら後は自由だ。
ただ、これが都会の人からすると自由というのが難しいらしいのだ。
それは当然なのかもしれない。
産まれた時から全てのエンタメがあり、お金によって殆どの物が手に入るし、そうでなくても見る、知ることができる。
全て完成されていて、自由を求めることはそのバランスを崩すこととなり煙たがられる。
ひいては既にある物を手に入れることを楽しむしか無いのかもしれない。
都会的な自由とは即ちお金を多く持つことなのだ。
私はハッとした。田舎は何も無いことを嘆いていたが、都会の人が憧れる自由が元々あったのだ。
山や海や川ではこっそり全裸になってみてもいい。見つかったって見た方が悪いと言えばギリギリ乗り切れそうな気がするくらいだ。そのくらい田舎は自由だ。都会で生まれ育った人間にそんな発想は出来ないだろう。出来たならそれは都会人ではなく変態だ。公の場でそのもやしを顕にしてしまう前に、今すぐ都会を離れた方が良いだろう。
アウトドアをどう楽しめば良いか分からないなら
まずは山や川や海や空どこでも良いので、お気に入りの服でも着て出掛けて欲しい。
必ず何か発見があるはずだ。
山に咲く可憐な花や、美しい渓谷を優雅に泳ぐ渓流魚や全裸のおじさん。
その全てを自由に触れて良いし写真に収めても構わない。
自分で思いついたことも環境と命さえ守られているならなんでもありだ。
だから出掛ける度にやりたいことが増えて全く退屈しないのだ。これが正にアウトドアの魅力である。
なぜしんどい山に登るのか、暑い海に行くのか、危険な川で泳ぐのか。なぜパンツを履かないのか。何の意味があるのか。よく聞く愚問である。それらの答えは単純で楽しさを創れるからだ。
アウトドアは危ないし怖いことも多い。だが準備することで限りなくリスクを減らすことが出来る。
危ない事が怖いなら鍵をかけて部屋にいればいいだけだ。とD.Oも言っている。私はあの曲を聴くと上ずった鼻声で それな! と合いの手を入れている。
意味ばかり追いかけてワクワクを蔑ろにしていると光を見れることもなく、与えられる物と金を消費するだけのもやしとなりただただ腐敗し、地方に乱立している葬儀会社に もやし 尽くされるのだ。
釣りの倫理と人間の進化
人間と動物の共存について最近よく考えるようになった。特に熊の被害が増えているニュースを見て、人間と動物の殺生の是非について考えさせられている。
私は幼い頃から釣りを楽しんできた。基本的にはキャッチアンドリリース。釣った魚を写真に撮って放す。しかしこれは倫理に反する行為だと感じることもある。食べるための釣りとは違い、私の釣りはあくまで娯楽のためだけだ。
釣りに関する議論でよく取り上げられるのは、魚に痛覚があるかどうかだが、私はそれが重要ではないと考える。魚に傷を負わせ、時には死に至ることもあるのだ。では、なぜこのような野蛮な遊びが続いているのか。それは、人間が狩猟採集生活を通じて成功体験に快感を覚えるようにプログラムされているからだ。
現代社会では狩猟の必要はなくなり、宗教的文化により弱い生物を大切にするようになったが、それもまた種の存続のための自然な行動だろう。
ただ、魚類に対する同情心が少ないため、釣りが野蛮な趣味だとあまり言われてこなかったのだろう。
人間は本来、野蛮で残忍な動物であるが、同時に弱い生物を大切にする感情も持っている。この二つの相反する性質は、絶妙なバランスにより保たれているだけだ。
人間の本能と感情は神のみぞ知る問題であり、私たちはその狭間で生きている。釣りを禁止すれば、それより少しグレーだったことも禁止、さらに薄いグレーの部分も禁止にせざるを得なくなる。この漂白スパイラルに陥るのだ。テレビの衰退と同じだ。そんな漂白された社会が健全で幸せになれるのかどうか考えてみてほしい。
もともと野蛮、残忍、残酷、などの概念は人間だけが持っている概念であり人間がその度合いを決め人間同士が他人に気を使うように気にし合っているだけなのだ。
他者からの意見も是非聞きたいので、反論や賛同など、意見をお寄せいただけると嬉しい。
愛車とのお別れ
初めて車を買ったのは20歳、社会人1年目の11月だった。グアム旅行から帰ってくると車が届く予定で、旅行中もそのことばかり考えていたのを覚えている。
同級生や同期が車を買い、それに乗せてもらうたびに自分も車が欲しくてたまらなくなった。しかし、車を買うという大出費は当時の私には縁のないものだと思っていた。かっこいい車に乗って女の子を連れてドライブし、すました顔でハンドルを握りたかったのだ。
ある日、BMWのシルキー6と呼ばれるエンジンとそのドライブフィーリングに魅了され、見に行っただけのつもりが、その場でBMWのE83を購入してしまった。
当時、手取り13万円ほどの私の生活は車のために働く日々へと変わった。E83は燃費がリッター6kmと悪く、通勤だけで毎週1万5千円もかかる。お金が足りなくなると毎日10kmを走って通勤した。
しばらくして、私はコロナ禍で会社を解雇され、借金を抱えて極貧生活が始まった。車を手放そうとしたが、査定額は1万円、NIKEのエアフォース1と同じ値段だった。外車の価値はそんなものだ。
車中泊をしながら就活を続け、徳島県の会社に面接に行くと、老社長が私の車を見て「車が好きなのか?」と尋ねてきた。「はい」と答えると、社長はBMW初代M5を見せてくれ、その後ドライブに連れて行ってもらい、最終的にその会社で働くことになった。住む場所も会社の倉庫の2階を貸してもらった。
生活が安定し、私のアウトドア熱は一層高まり、四国中を走り回った。川を渡り、砂に埋もれ、林道を駆け抜け、雪道に挑むなど、BMW E83の足回りの素晴らしさを満喫した。
しかし、2021年の冬、渓流釣りに出かけた際に冷却水が漏れ、修理を重ねたものの維持が困難となり、先月ついに手放した。走行距離20万キロ、納車時は2万5千キロだった。
次に乗る車はハイラックスサーフ。質実剛健な車で、アウトバックやディフェンダーも考えたが高額すぎた。積載量が必要だったため、ジムニーは候補外となった。
私が選んだのは2WDのハイラックスサーフ。多くの人がなぜ4WDを選ばないのかと疑問に思うだろうが、私の行動範囲内では4WDの必要性を感じなかった。LAで見た2WDのSUVに感銘を受け、見栄や無知から解放された選択だった。
ハイラックスサーフはFRのラダーフレームを持つ、ピックアップトラックにキャビンを付けたような車。アメリカで見た、余計な装飾のないSUVたちに憧れ、私もそのような車との付き合い方を目指したいと思った。