rk_southsideの日記

絶叫ぎりぎりZ世代

トレンディ

ここ最近野山を駆け回っていた私。

3月初旬から里に降りて市街地にて生活を始めたわけだが、以前にましてトレンディな紳士淑女が街中に増えたように感じた。

おそらくTikTokInstagram等のSNSによってティーン世代に"トレンディなファッションやライフスタイルが広く浸透してきた証拠だろう。"

当ブログは、私にとってのドレスやリアルクローズ的な目線から見たメンズファッションについての見解だ。レディースに関しては無知なので触れない。みんな可愛い。

 

私は生まれも育ちも田舎だ。私がティーンの頃なんてSNSにオシャレの情報なんてものは存在していなかった。

オシャレな情報を手に入れるには部活後の酸っぱい臭いのままコンビニにダッシュし、ファッション誌を購入し、おでこの脂でページが離れなくなるほど熟読するしか無かった。

そんな時代だったのでオシャレという曖昧な価値基準に興味を持つ人間は全体の10%にも満たなかっただろう。

"トレンディなファッションやライフスタイルが広く浸透してきた証拠だろう。"と言ったのはこの10%だった人間が少なからず40%くらいには急増したように感じるからだ。

他にもオンラインショッピング文化の浸透もあるだろう。

最近のメンズがオシャレになったかかどうか、は別として少なくとも美意識は高い。

しかし、オシャレな人は増えたが"カッコいい人"は減った。これは容姿の優劣などではなくアイデンティティ喪失であったり、思考力の低下などの問題であると感じる。

 

前置きが長くなったが、何が言いたいかと言うと。

パッと見カッコいい人は増えたが、模倣の得意な人間がかっこいいとされている現状。それは本当にメンズファッションとしてカッコいいのだろうかということだ。

 

一方私はと言えば、他人から見ればなんだか小汚い服を着たずんぐりしたおじさんと言ったところだろう。

ただ10年以上に渡ってファッションやプロダクト、インテリア等のデザインや音楽、アートに対して傾倒し、それなりの金額と時間を投資してきた。

とはいえ、私はファッションのプロでもなければ、現状素晴らしいファッショニスタでもなんでもない。

こんなこと言う人もいるんだなと言うくらいに読んでいただきたい。

 

流行を知ればオシャレになれる。

これは正解だとは思うが、これだけでは刹那的なオシャレしか実現しない。

ひたすらトレンドを追い続けるとトレンドが終われば次の服が欲しくなり、服によって生活が圧迫されるようになるだろう。

最近で言えばアメカジだのゴープコアだの言って細長いサングラスをかけて意味深なタトゥーとお決まりの髪型で型にハマっている人のことだ。

だいたい群れで行動し、量産型と括られる。

 

一方。俺は流行なんて追わない。と言う人に出会ったことは無いだろうか。これはこれで論外であることが多い。

流行と言うものは一般的に入手出来る全てのプロダクトにおいて影響を受けており流行から隔絶された人間というのは流行を完璧に把握した人間でしか成し得ない。

流行を知ろうともしない人は自分の身につけている物のディテールを把握出来ないのでよく見るとおかしな格好をしている人になりがちだ。

 

ではカッコいいメンズファッションてなんなんだ。

それはリアルであることだ。

TPOはもちろん、その人のアイデンティティや機能性、社交性、環境、歴史等によって裏打ちされている状態。がリアルであることだと私は認識している。

 

ファッションは自由だ。

残念だがこれは誤りである。私もそう思っていた時期がある。

レディースと違い、メンズファッションというのは厳格なルールを持つドレスを根幹に持つため今の時代となっても自由とは言えない。

私の身体は自由に動くしその気になれば人を刺し殺すことも出来るが、様々な理由によりそれをしてはいけないように冠婚葬祭に短パンというように自由に着ることは出来るが、事実上タブーである。そういったルールはずっと昔から今もなお存在しているのだ。

 

 

昨今のカッコいいとされているトレンドは、アメカジや80s、ストリート、〇〇コア(ノームコアを除く)などだろう。

これら全てに共通しているのは誰かのライフスタイルの模倣なのだ。

アメリカ人の模倣。80年代の雰囲気の模倣。貧困層の模倣。

〇〇コアに至ってはコアの部分は模倣の言い換えでしかない。

 

平成の日本に生まれ、何不自由無く親の愛を一身に受けて育ち、休日は同じ友達と集まり。女の子に嫌われたくないからスマホの中にいる人の模倣をするのだ。そんな彼等による何の脈略もないストリートファッション。

 

一方で、農家に生まれ土に塗れて働き、たくましい身体付き。破けたパンツはセンスのいいパッチワークでリペアされ、大切に手入れされた美しいレザーのブーツ。そこに一つだけトレンドを意識した上質な生地のワークジャケットでも羽織る。

 

 

私は後者の方がカッコいいと感じる。それは見た目だけの話ではなく、バックボーンの垣間見えるリアルなライフスタイルだからだ。

ファッションを外見だけの問題として留まらせず生活に落とし込まれたファッションこそメンズファッションにおいてはカッコいいと評価されるべきではないだろうか。

 

しかし、やはり女の子目線で言えばそんなことは関係無く。トレンディで軟派な男が石田純一がトレンディ俳優と呼ばれていたよりもずっと昔からモテているのである。

彼等の模倣するファッションというのは女の子にモテたいという目的に対して、モテるファッションをしているという意味ではやはりリアルである。

と言わざるを得ないのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

登山

登山の魅力とは。

私は7年前に石鎚山に初めて登った。

それからコソコソとたまに山に登り続けて今年石鎚山脈の全てのピークを踏んだ。

登山好きからすれば、別に自慢するほどのことでも無いが、1つの目標だったのでしばらく自慢する。

 

山に登る話をすれば、高確率で問われる難題だ。

登山を頭のおかしいどM な連中の趣味だと思っている人が多いのだろうがそれは違う。

私に言わせればマラソンや筋トレなんかの方がずっとドМでド変態だ。

 

登山は決して自分を痛めつけるところに魅力があるのではない。

私はいつも``お酒のような物"だと伝えるようにしている。

それもワインやウイスキーのような知識が伴うことでより味わいが深くなるお酒だ。

自分で考えて登山の工程を練るところは、そのお酒を造るような立場でもあるのかもしれない。

子供の頃は美味しくなさそうなお酒も、気のおけない仲間と飲むと美味しく感じ始めたりするものである。

かっこつけているわけではない。しかしちょっとかっこつけてはいるが、本当にそう思うのだ。

「そこに山があるから」とかジョージ・マロニーちゃんの真似をしてみたり。山頂の景色を見るため。山頂での食事が美味しいから。そんなわけがない。

個人的にはたったそれだけの理由であの過酷な山行に耐えられるはずはないと思う。

 

私のホームである石鎚山はロープウェイを使用しても往復6時間。

山頂の景色のために6時間重い荷物を背負い歩き続けられるはずがないのだ。

 

それでも山好きはなにかに取りつかれたように山に登る。

毎週山に登る人。同じ山に何百回も上る人。新たなルートを開拓する人。前人未到の挑戦をする人。

そこには一つだけの理由ではなく、自然に馴染み道具を駆使し攻略する楽しみ。季節の香りや生き物の営みを見る楽しみ、美しい色の水の音や小鳥のさえずり、葉の揺れる音、目が覚めるように澄んだ空気、野ウサギのうんち。

 

お酒と同じく、全て味わったことのある人にしか分からないのだ。

お酒のように嗜み過ぎるとアル中になることもある。

山中毒になった彼等は、治療を受けようとしない。そうして最後に辿り着くところが8000m級の山への挑戦なのだろう。

 

 

新年の目標

紳士淑女の皆様は新年の目標を掲げられただろうか。

 

私は目標など掲げるのはあまり好きではないが、彼女に強制されるように目標を掲げたところである。

来月には忘れているのがオチなので、ここにのっぺりと書き残しておきたい。

 

2024年 私の目標は。

アメリカでのロングトレイルを成功させられる力を身に着けることである。

ロングトレイル自体は、季節の問題もあり2024年中には難しそうだ。

 

仕事とは一切関係ない。ただの趣味だ。

それが出来たからと何かが変わるわけでもない。ただただ歩ききったと言うだけだ。

スタートでもゴールでも誰かが祝福してくれるわけでもなく、静かに始まり静かに終わり静かに泣く。よくわからない趣味だ。

 

ロングトレイルとはひたすら歩き続ける旅である。

私が計画しているのはアメリカのジョンミューアトレイル。約400km。アメリカのワイルドな大自然の中を1か月ほどバックパック一つでキャンプしながら歩ききる。

欲を言えば半年間かかるPCTと言うロングトレイルに挑戦したいのだが、収入が無い期間の税金が高すぎて払えないのでこちらは諦めることにした。

 

 

それを成功させるためにいくつか壁があり、それを乗り越えるための一年にしたいということだ。

まず資金面。概算ではあるが、ざっと120万円あれば問題なく挑戦できる。

ただ趣味のためにそんな金額ぱっと出せるものでもないので、まずは貯金からだ。

 

一体何が悲しくて私は大金をはたいてこんな虚無な挑戦をしようとしているのだろうか。

薄々感づいている方もいるだろうが、SUP漂流で死を目前にしてから、幸か不幸かこれまで通りの考え方で生きることができなくなった。

強さへの憧れなのか。はたまた恐怖で脳が壊れて冷静な判断力が欠如したのか分からないが、雪山に上る技術の勉強や、ロープを使った登攀技術の習得や、コンパスや高度計の専門的な使い方や、野外での救護に関する知識。フィジカルの強化といった決して日常生活で使わないスキルを昨年は急ピッチで習得した。

 

それらを総合的に発揮できるロングトレイルに単純に興味が湧いただけなのかもしれないが、自分の努力の一つの到達点として勝手にアメリカに行って満足したいのだ。

 

最も大きな壁はグリズリーへの恐怖を払拭すること、

そしてTHENOTHFACEのロゴにも描かれるハーフドームというどでかい壁を超えることだ。

 

 

 

日本における宗教観

紳士淑女の皆様。あけましておめでとうございます。

昨年は自分にとって大きく前進できた一年になったと感じている。

今年は目標を達成していく一年になるようにと願いながら、引き続きのんびり1年を過ごそうと思う。

 

宗教的なイベントが絡むことが多かった最近。ハロウィン、クリスマス、正月。

日本人は仏教や神道の教え由来の文化が残るが、様々な宗教に寛容である。よく聞く言葉だが、違和感を感じるのは私だけではないだろう。

日本人は比較的他の国の文化、宗教に関して不寛容だ。

それは島国であり少ない民族で構成された日本人の特徴である。

多くの日本人は自分は無宗教だと言う。

果たして本当にそうだろうか。

教会に入信していない人を無宗教だというなら、もちろん私も無宗教だ。

 

教会に入信している人に対して、その教えの内容など知りもせずに敬遠する人が多い。ユダヤ教キリスト教イスラム教、創価学会。それぞれどんな特徴なのか理解している人は10%もいないのではないだろうか。

 

私は無宗教だから。と我々は鼻高々に他の信仰を持つ人を少し軽蔑する節がある。

だが、私たち日本人にはれっきとした信仰を持っている。

それは’’世間体’’である。

 

世間体という目に見えない心の問題を恐れて、それに従って生きている。

自分のやりたいこと、言いたいこと。それらは世間体の教えと違うと天罰が下るかもしれない。と考えるのだ。

世間体の部分を神と差し替えても同じだ。

それが決して悪いことではない。これが日本人らしさの正体だと私は思う。

 

私たちは自分の意志で考えているようでそうではない。人間の誰もがなにかの信仰を持って生きている。お互いがその信仰を尊重することが大切なのだ。

その信仰が理解されず衝突した結果が今のイスラエルである。

 

私の言っていることは理想の域を超えることは無いだろうが、これを理解していれば、これまで争う理由が分からないからと遠ざけていた宗教戦争や、他の信仰を持つ人への理解が身近に感じられるのではないだろうか。

 

 

 

釣りの倫理と人間の進化

人間と動物の共存について最近よく考えさせられる。

最近は熊の被害のニュースがこれまでより目に入るようになり、それに関する批判なども目にするようになったからかもしれない。

人間と動物の殺生の是非については私は人よりも少しばかり身近に感じて育ってきたと感じる。

釣りにおいてもこの問題を抱えている。

私は幼い頃から釣りという娯楽を楽しんできた。

基本的にはキャッチアンドリリース。自由に泳ぎ回る魚に釣針を引っかけ引きずり回す遊びだ。その後は写真を撮って逃がす。

やっていることはえげつないほど倫理に反する行為だ。

 

食べるために釣りをすることとは分けて考えているが。私がやってきた釣りは基本釣り上げるだけだ。

自分が楽しいから釣る。理由はそれだけだ。外来魚を駆除する目的でもない。

 

この問題では必ずと言っていいほど、魚に痛覚があるかないかの議論が展開されるが、個人的にそんなことはどうでもいい。あれは釣りをするための都合のいい言い訳にしか過ぎない。

魚に傷をつけていることに変わりはない。痛くなくとも口が変形したり目を怪我したりして絶命してしまうことがあるのだ。

 

ではなぜこんな野蛮な遊びがこの国では縄文時代に端を発し江戸時代から娯楽として続いているのか。

それは人間の持つ野蛮さを理解する人がどれくらいいるかに関わると考える。

 

私たちサピエンスは太古より狩猟採集生活によって現代まで種を存続させてきた。その中で現代に生きる私たちのDNAには狩猟など(現代では仕事など)によって成功体験を得た場合、快感を覚えるようにプログラムされているのだ。

そのプログラムは種が存続する上で極めて自然なものなのである。

しかし現代の宗教的文化で発達した社会においては狩猟を行う必要など無い。

だから人間にとって可愛い生き物を殺そうものならその社会から疎外されてしまうのだ。

しかしこれも種の存続として自然である。なぜなら集団を形成し存続した我々は集団の規範を守れないものは集団を破壊する種として迫害することにこれまた快感を覚えるからだ。迫害し追放に成功した個体は周囲からの評価を受け社会的欲求が満たされる。

ただ、哺乳類から遠い種である表情も体温も無い魚類に同情できる人間は少なかったのでこれまで釣りが野蛮な趣味だとは言われてこなかっただけのことだろう。

 

人間はもともと野蛮で残忍な動物である。

ただ、文化的な理由で我々は感情によって弱い生物を大切にする動物でもある。

私はこれらがどちらも正しく、相反するものだとも思わない。

他の動物を痛めつけ過ぎるのも駄目だが、保護しすぎるのも駄目で、極めて複雑なグラデーションによるバランスが保たれていないといけない。

それが現在では人間の感情(動物保護派)が少しばかり優勢になっているのだと感じる。倫理上聞こえのいいものは賛同を集めやすい。考えなくていいからだ。

でもなぜ人間の野蛮さが現代でも失われないのか。それは先ほども書いた通り、人間が現代でも目的を達成する過程において役に立っているからだ。

人間の感情とプログラムの問題は、まさに神のみぞ知ると言ったところだ。

 

生き物は大切にしよう。それはもちろんだが人間が健康的に暮らすためには人間の本能も大切にしよう。ということだ、魚釣りはそこだけ切り取れば野蛮で残忍だが、人間が健康的に暮らすためにはある程度必要でもあるのだと思う。

結局都合のいいことを言っているようだが、釣りを禁止し、同じ考えのもと様々なものが禁止されていく社会は果たして健全なのか想像していただきい。

 

曖昧な結論にしかならないが、私の内面にあるモヤモヤのジャーナリングとして個人的には納得のいく結論になったと思う。

公開している理由は他者からの意見を是非聞きたいからだ。

反論がある人も賛同してくれる人も是非私にDMでもコメントでも直接でも意見をお聞かせした頂けると嬉しい。

 

 

 

 

 

愛車とのお別れ


初めて車を買ったのは20歳 社会人1年目の11月ごろだ。

グアムに旅行に行って帰ってきたら車が届く予定で、グアムどころではなかったから今でも覚えている。

 

同級生や同期が車を買って、それに乗せてもらったりしたとき自分も車が欲しくてたまらなくなった。

車を買うなんてそんな大出費したこと無い自分には、まだ縁の無い物だと思っていた。

かっこいい車に女の子をたくさん乗せてお出掛けして、すました顔でハンドルを握ってイキりたかった。

 

ある日BMWのシルキー6と呼ばれる名作エンジンとドライブフィーリングに魅了され、とりあえずと見に行っただけのBMWのE83をその場で購入した。

 

当時手取り13万円ほどだった自分は、車のために働く日々が始まった。

悪い顔つきをしたE83は中身も極悪で、燃費はリッター6kmという暴力的な数値。通勤だけで毎週1万5千円失った。

お金が無くなれば毎日10kmをダッシュで通勤した。近隣の人がどんな目で私を見ていたのかは考えたくもない。

 

それからしばらくして、貧乏な私はコロナ渦で会社を解雇になり借金を負い、極貧生活が始まった。

普通なら車を手放せばいいと思うだろうが、見積もりは1万円だった。NIKEエアフォース1と同じ。売ってどうにかなるものではなかった。

外車とはそういう物だ。

 

車中泊をしながら就活した。

徳島県のとある会社に面接に行くと、老社長が私の車をずっと見ていた。

ホームレスの住む車がそんなに珍しいかと思っていたが、優しい目で私に「車が好きなのか?」と聞いてきた。「はい」と答えると、会社のシャッターが開き、なんと中からBMW初代M5が登場した。

あまりのかっこよさに鼻水が出た。そのまま老社長のM5の助手席に乗ってドライブに連れて行ってもらい、同情もあったのか気に入られそこで働くことになった。

家もその会社の倉庫の2階を貸してもらった。

車より遥かに快適だった。

 

生活が安定した頃には出来ることも増え、私のアウトドア熱は一層加速し。キドニーグリルに相応しい荒い鼻息で、鼻水とガソリンを垂れ流しながら四国中いろんなところを駆け抜けた。

川を渡り、砂に埋まったり、林道の枝を弾き飛ばしながら走ったり、雪道での限界に挑んだり、足回りの作りが秀逸で走るのが楽しすぎて運転して疲れを感じたことは無かった。

 

 

そんな愛車は2021年の冬、渓流釣りに出かけていた時。車に戻ると冷却水がしこたま漏れていた。川の水を入れてなんとか家までは帰った。

この冷却水漏れは修理したのだが、直しても直しても違うところから漏れて金銭的に維持ができなくなったので先月、ついに手放した。

まだまだ乗りたかったのだが、走行距離も20万キロということもあり仕方がなかった。

納車された時では2万5千キロだった。

この年代のドイツ車としては、なかなか壊れなかった方ではないだろうか。

 

次に乗る車はハイラックスサーフ

こちらは質実剛健といった感じの車で、ランクルほどの走破性は無いもののラダーフレームで一般的な使用には十分すぎる構造をしている。

他に乗りたかった車としてはスバルのアウトバック、ランドローヴァーのディフェンダー。ただこれらは思いっきりアウトドアで傷をつけまくるには私にとって高額過ぎた。ディフェンダーに関しては渓流や山に入る事が出来ない。

そして最近アウトドアの荷物の増えすぎた私にはこの積載量が無いと駄目なのだ。

本当は国産最強クロカンのジムニーが好きだが、積載量が話にならない。

 

ちなみにサーフでは珍しい2WDの車両になる。

一般的にはなぜサーフで2WDなんだと嘲笑する人もいるだろうが、私は5年前にアメリカのLAで見たSUV達に衝撃を受けた。

LAのSUV達は大型のピックアップトラックジープでさえも8割程が2WDなのだ。

私はそれまで4WD以外はありえないでしょ。と考えていたのだが、よくよく考えるとフルタイムは別として、パートタイム4WDのセンターデフの無い車両で4WDを使う必要のある場面というのが自分の行動範囲内では存在しないのだ。

E83はフルタイム4WDだったが、特に必要ではなかった。

使うことのない物を所持するのはそれは見栄か無知か臆病だ。

そもそもサーフの起源はラダーフレームでFRのトラックだ。軍事目的から派生したジープ等の4WDなどとは起源が異なるのだ。日本ではここの線引きが非常に曖昧なままなので未だに4WDが常識となっているのだろう。ハリアーからランクルまでもが全てSUVというジャンルに括られている異常事態である。

私が乗るハイラックスサーフはFRのラダーフレーム。まさに、ピックアップトラックにキャビンを付けるのが流行した80年代SUVの元祖の様相を呈している面白い車だ。

アメリカで見たSUV達の砂煙に塗れたボディと黄ばんだライト、バンパーが無くなってたり、引き摺りながら走る車。本気でアウトドアを遊ぶためのSUV達の姿。降りてくるのは、外での遊び方を知った野生の紳士。かっこ良かった。

そのような余計な装飾の無いリアルな使い方に憧れたので今回は私もそのような車との付き合い方を目指したいと思った。

 

 

 

 

ルアーのトレンド

ルアーと言っても多種多様な種類が存在するが、今回は主に海で使用されるルアーについての私の考えを書き残そうと思う。素人の戯言だと思って読んでいただきたい。

少々マニアックな話になる。

 

昨今のソルトウォータルアーの流行りの一つとして(強烈なフラッシング)この要素を持つルアーが飛ぶように売れている。

シマノのルアーでは(フラッシュブースト)ダイワでは、つい最近発売された(レーザーインパクト)これらの機能はどちらもルアーをリアルなベイトフィッシュに似せた光を反射する機能だ。

私自身もシマノのフラッシュブーストを搭載したミノーを3本ほど購入したことがある。こんなの釣れないわけがないだろと。

私はシマノに釣られた。

使用してみての感想は。従来のルアーと釣果の差は感じなかった。

https://www.daiwa.com/global/ja/daiwa_technology/laserimpact/引用

このフラッシングに関して私が疑問に思うことがある。

フィッシュイーターの餌となるベイトフィッシュはどれもキラキラしている。

これに似せれば釣れる。というロジックは理解できるが。フィッシュイーターは本当にそのフラッシングを頼りに捕食を行っているのかというところだ。

フィッシュイーターの多くは側線や嗅覚が非常に発達している。

なぜイワシが光を反射するのか考えてみて欲しい。光を放つと捕食されるのなら。

イワシは光を放たないマットな質感で進化をするはずだろう。

群れを成す魚の多くは視認しやすい見た目をしている。

イワシは青物とタイマンを張ろうとは鼻から考えていない。群れ対1の戦略で現在まで生き残った。イワシは群れを形成するため、互いに光を放ちそれを頼りに群れを形成しているのではないだろうか。

とはいえフラッシングが全く無意味であるとは思っていない。ただ過剰なフラッシングに意味があるのかという話である。

 

売れるルアーには巧みな広告戦略がある。

強烈な謳い文句、プロによる論理的な解説と釣果写真。まずはこれらを広告する。

ここで新しいもの好きなアングラーが飛びつく。

次にメーカーは釣果をInstagram等でアップしてくれた人にプレゼントなどのキャンペーンを行う。

Instagram等に同じルアーを使用した釣果写真が増える。

すると私たちはこのルアーは本当に釣れるんだな。と勘違いをしメーカーに釣り上げられるのだ。

これを繰り返してルアーはめまぐるしい進化を遂げてきた。しかし外観的な特徴を持つルアーはその魅力の伝えやすさからビジネスとして成り立ちやすいのだろうが、ルアーメーカーの重鎮HEDDONの創業者ジェームス・へドンは「どんなに生餌に似せたルアーを作っても、何も得ることは無い。という言葉を残している。

https://american-bass-shop.com/series/2/50330/6/9/

私もこの考え方は深く賛同している。それでも幼い頃はリアルなルアーこそ至高であると考え、陳列されたリアリスティックなルアーにはやはり心が躍った。

今の私の考える良いルアーとは、リアルさを謳うルアーではなく。思った通りに動くルアーだ。

例えば、飛距離。根がかりの回避性能。フックがラインと絡まないこと。フッキング率の高さ。バレにくさ。泳ぎの安定性。など。これらがそれぞれの用途ごとに最適なバランスで設計されている。

名作と言われるルアーには生き物としてありえない形をしたルアーが多いのもその証拠だ。

ブラックバスやトラウトにおいては先述のHEDDONなどのルアーメーカーが文化をけん引してきた背景も大きい。

青物やシーバスのルアーはまだまだ歴史が浅く。リアルなルアーは簡単に作れるため、国産大手メーカーが力を入れている要素なのだ。

 

メーカーは魚釣りのプロであり、人釣りのプロでもあるということを忘れないで欲しい。しかし、メーカーが存続しなければ私たちの釣り具すらなくなってしまう訳で。

構図としては。プランクトン→ベイトフィッシュ→フィッシュイーター→サピエンス→釣り具メーカー。

やはり私たちサピエンスはこれからも釣り具メーカーの餌となり続ける他ないのだ。