ファッションは自由って言うのやめませんか?
プラダを着た悪魔2を観た。
少々のネタバレを含むかもしれませんが、これを読んでから観るのも面白いかもしれない。
観終わったあと、ずっと頭に残ったのは綺麗だった。でも、おしゃれだった。でもなくやっぱりファッションって全然自由じゃないなという確信。
サイズ感。パンツの太さ。ドレスの丈。ヒールの高さ。時計の径。ベルトの有無。
厄介なことに、皆んな自分で選んでいると思っているのだ。1作目のアンディのセルリアンのニットについてミランダが触れる場面と同じ。
おまぬけなインフルエンサーが今季はこれと言えば、昨日まで興味のなかった服も突然欲しくなる。
魚群探知機に映るイワシの群れのように同じ方向へ一斉に動く。
だけど本人達は自由だと思っている。もちろん私もその中にいるだtろう。
古いフィッシングジャケットを見て興奮するし、革靴のトゥの形や縫製で一喜一憂する。
今ではPatagoniaやモンベルなどのファッション性とはあまり縁の無い服を着て自然の中でお魚を見て大喜びしているだけの人間だ。
ハイブランドには糞ほどにも興味がない。私の人生の文脈の中に全く関与していないからだ。
しかしながらファッションそのものを否定したい訳じゃない。
むしろかなり好きだ。悔しいほどに。
この映画が面白いのは、ファッションをただのおしゃれとして描いていないところだと思う。
誰が支配して、誰が文法を理解して、誰が背伸びして、誰が見抜かれているか。
それが全てで、ミランダが特にそうだろう。
彼女は服を着ているというより、権力そのものを着ていた。
Runway編集部にいる彼女は、制度そのもの。
雑誌の編集長という立場。彼女は読む側ではなく、読ませる側の人間。それは雑誌だけではなくファッションもそうなのだと私は感じた。
肩のライン。ヒールの音。コートのドレープ、ジュエリーの置き方。
全部が間違えるな。と言っているようなそんな感じだ。
この映画のインテリアに関して触れている人は少ないのではないだろうか。
前作での彼女のオフィスのアクセントカラーは赤だったのに対して、今作ではオレンジ色。ざらっとしたファブリックや木の質感など、艶感が減り 少し柔らかい印象になっている。
印象的だったのは、彼女がイタリアの夜の街を歩くシーン。
ミランダは黒のスパンコールに鮮やかなたくさんのクリスタルがちりばめられた美しいオーバーコートを着ていた。ドルガバだろうか?よくは分からないがそんな雰囲気。
かなりイタリア的な特徴を持った服。
石畳。歴史的な古い建物。湿った夜風。暖色の灯り。
その中を、黒いドレスで静かに歩くミランダ。あのシーンを見ながら思った。
結局はファッションの王者も、歴史には勝てずに溶け込むしかない。
数百年前の石造りの建物の前を流行の中心にいる権力を持った女性が、流行より長く残る街の中を歩いている。
ニューヨークでは女王みたいな彼女も、イタリアの古い街並みの中では“風景の一部”になる。
かなり皮肉だ。
そして若作りしていない美しさ。
皺も。白髪も。年齢も。全てそのまま武器になっている。
ファッション業界は常に次を求める世界なのに結局人が圧倒されるのは、
古い街や歴史や建築や時間の蓄積だったりする。
だからミランダが映える。
彼女自身もある意味ヴィンテージ化しているのだ。
若さや流行ではなく、
積み重ねた審美眼そのものが存在感になっている。
服を見せているのではなく、その人の歩き方や、街との馴染み方が服を成立させてる。
逆に言うと、そこまで行けないと高級服なんてただのコスプレになる。
東京の街中やSNSでよく見る厚顔無恥な顔にハイブランドのロゴだけついてる人間のことだ。
最近のSNSは、若く見えることに必死過ぎる。
しかしミランダは、若さを延命するのではなく、時間を味方にしている。
一方でアンディは、文法を覚えてしまった人間とでもいうべきか。
前作では彼女の目は私たちの目であり、異様なファッション業界を私たちはアンディを通して除いていたような映画だった。
前作ではこんな世界くだらない。と言っていた人間だ、業界の内側に入り違いが分かるようになってしまった。
ここがこの映画の残酷なところだと思う。
一度違いが見えるようになると、人は昔には戻れない。
音楽も。カメラも。建築も。釣りも全てそう。
知らなかった頃の感覚には戻れない。
前作の青いセーターのシーンはとくに有名だが、前作の彼女は私たち側の人間。
私は自由ですと思ってる人間も、実は巨大な文法の中にいる。
今作での彼女の服は前作と違い、理解している側の人間の服になっている。
古着屋で買ったというゴルチエのセットアップにコーチのメッセンジャーバッグ、
なんのシーンだったか忘れたが黒いシルクベルベッドのジャンプスーツが印象的だった。
ラストシーンではアンディ、ナイジェル、ミランダ部屋が同じ大きさかつ横に並べるように映り、アンディは前作でミランダにこき下ろされたセルリアンブルーの同じ編み方のニットを着用していた。
これが何を意味するのかははっきりと分からないが、ラグジュアリーの陳腐化と大衆化への皮肉?そうともとれるかもしれないが。
私の感覚ではラグジュアリーが大衆化したのではなく、大衆化まで含めてラグジュアリーの商売になった。といった感じなのではないだろうか。
今作のエミリーは特に面白い。
彼女の服は、上品というより攻撃性そのもの。
普通ならやり過ぎなジュエリーも、強過ぎるシルエットも、洗練されていて、彼女が着ると成立するような。私は感じの良い人間になる気はありません。でも勝つ気はあります。というような服。
象徴的なのがティファニーの巨大なエメラルドカットのアクアマリンと巨大なダイヤのついたネックレスは、映画内で見るだけでもとんでもない存在感であり非常に美しい。
エミリーはディオールの幹部になっていた。彼女は葬儀のシーンでもディオールのヘッドドレスを身に着け、マリア期のミニドレス?を着用して参列している。その時の装いがディオールらしくて印象に残った。
ナイジェルはというと、服を文化として着ている。今作も前作も彼の美意識は歴史的に裏打ちされたもの。
ミランダが服を読ませる側と言ったが、ナイジェルはまさに読む側。
高い服を知っているだけじゃなく、なぜそれが美しいのか知っている。
だから派手でも下品にならない。知識があるからだ。
他のキャラクターが時代の波や価値観に左右される中、彼の着るスーツだけはずっとトラディショナルで知的なユーモアをまとっている。
人類は知識のない派手さを痛いと呼ぶ。
あとこの映画で印象的だったのは、作中に何度もあるパーティのシーンだ。
特にガラシーンでのミランダの真っ赤なドレスは見る側に強烈な印象を与えるだろう。
ファッションに興味がない人が見れば、皆んな自由に着飾っているような世界に見えるのではないだろうか。
きらびやかで豪華絢爛な場に、高級で美しくてかわいいお洋服を自由に着た人がたくさん集まってファッションを楽しんでいる。
といった印象を持つことだろう。
でも見れば見るほど違うのだ。
歴史、文化、主賓、ゲスト、建物のデザイン。
それらに対して色数や素材感。肌見せ。シルエット。ジュエリー。ドレsコード。
全てが異常な精度で合わせられている。
詰まる所、自由な自己表現ではない。
超高度な制約の上で成立しているのだ。
音楽で言うならジャズのような感じだ。
自由に見えて実際は全員がコード進行を理解している。
知らない奴が混ざると一瞬で浮く。
前作のアンディはまさにその浮いている側だった。
厄介なのが、ただその制約を守るだけでも駄目なところだ。
TPOを守るだけだと、つまらない人になる。
だから皆んな一定のルールを押さえた上で他者に失礼にならない部分のそのほんの少しの余白で、外し、崩し、攻めるのだ。
そのほんの少しの余白で戦って自己表現するから美しく、上品な色気があるのかもしれない。
ファッションは自己表現というより、所属しながら差異を出す技術だと思う。
かなり不自由だ。だがそれは私たちがその制約を感知できていないだけ。
SNS的な自由なファッションというのは、好きなものを着ればいい。
服はなんでも着ていい。それは法的にはそうだ。
だがそれはファッションではない。おしゃれという物差しが絡むと、無知な自由はただ街中で意味もなく大声で叫んでいる変態と同じになる。
でも、この不自由があるから、人間性も出る。
全員裸なら差は消える。
しかし制約があるから、育ち。教養。欲望。虚栄心。自信。コンプレックス。
全部が服から漏れてくる。だからこの映画のパーティシーンは、社交場というよりも
キャラクターが服を通して漏れ出しているシーンだった。
背筋が冷える。でも美しいのだ。
誤解をして欲しくないのが、単に綺麗を目指してる訳じゃないということ。
誰が主役か、誰が金を持ってるか、誰が文化を持ってるか、どの国の空気か
、フォーマルか、芸術か、ビジネスか。
全部で正解が変わる。かなり面倒である。
例えば色数。
本当に権力のある場ほど、色数が減ることが多い。
黒。ネイビー。グレー。ボルドー。
逆に成金系や、新しく上がってきた層ほど、
ロゴ。派手色、分かりやすい宝飾を使いやすい。
なぜなら、私は価値があります。を説明しないといけないから。
華麗なるギャツビーのピンクスーツのようなもの。
本当に強い権力側は説明不要なのだ。
だからミランダはド派手なドレスを着ても静か。
素材感もカシミヤ。シルク。ウール。
高級素材は写真じゃ伝わりにくい。近づける人間だけが理解できる価値でかなり階級的だ。
肌見せも単純な露出じゃない。
例えば、肩を出す、背中を開ける、脚を見せる
全部意味が違う。年齢や立場でも変わる。
若いモデルの露出と、ミランダの露出は全く意味が違う。
前者は若さ、後者は余裕。
シルエットも面白い。
仕事中のミランダのような直線的なシルエッなら知性や権威。
パーティ中の曲線的なシルエットなら柔らかさや官能。
肩を強くすると支配感。
落とすとリラックス。
ドレスコードは、服装のルールではなく、空気を読めるかのテストに近い。
完全遵守だと普通、崩し過ぎると場違い
この映画ではその数ミリの差で戦ってるのだから狂気のパーティだ。
しかしこれは現実でもそう。
例えば現場帰りの汚れたワークウェア。
新人が着るとただの汚れ。
ベテランが着ると現場をやってきた人。
なんとなくおしゃれと思って着てる人なら、憧れをまとっただけの不潔な人。
同じ汚れでも意味が違う。
よくヴィンテージのデニムだ大戦モデルだのレアスニーカーだの本物か偽物かなどと大騒ぎしているコレクターを見かけるが、本人がそれらの文脈と全く関係が無い以上アイテムは本物でも、本人は偽物なのだからどちらでもいいのだ。
ファッションは服単体じゃなく、誰が、どこで、何の立場で着ているかまで含めて完成する。
この映画では恐ろしいことに、皆んながそのルールを明文化せずに共有してる。
結局、ファッションは自由か?と聞かれたら、私はおそらくこう答える。
自由ではない。
かなり不自由だ。
でも、その不自由の中で、
何を残すか。
どこを崩すか。
何を取捨選択するか。
そこにその人の生き方が出る。
本当に格好良い人とは、服を着飾っている人とは違う。
人生が服に滲んでしまっている人だと思う。少なからずこの映画ではそうだ。
ミランダ、アンディ、エミリーそれぞれの部屋のインテリアまでキャラクターに合わせた非常に面白い仕掛けが含まれているところからもファッションが服単体ではないということの証明だろう。
私は新品みたいな服より、少しくたびれた服の方が好きだ。
日で色の抜けたキャップや多少の穴や擦れたジャケット。
少なくともその方が、土臭い田舎で育った過去も今もを着てる感じがするからである。
しかしこれもまたそのままオーセンティックバー行くと、今度は空間との文脈がズレる。