人間と動物の共存について最近よく考えさせられる。
最近は熊の被害のニュースがこれまでより目に入るようになり、それに関する批判なども目にするようになったからかもしれない。
人間と動物の殺生の是非については私は人よりも少しばかり身近に感じて育ってきたと感じる。
釣りにおいてもこの問題を抱えている。
私は幼い頃から釣りという娯楽を楽しんできた。
基本的にはキャッチアンドリリース。自由に泳ぎ回る魚に釣針を引っかけ引きずり回す遊びだ。その後は写真を撮って逃がす。
やっていることはえげつないほど倫理に反する行為だ。
食べるために釣りをすることとは分けて考えているが。私がやってきた釣りは基本釣り上げるだけだ。
自分が楽しいから釣る。理由はそれだけだ。外来魚を駆除する目的でもない。
この問題では必ずと言っていいほど、魚に痛覚があるかないかの議論が展開されるが、個人的にそんなことはどうでもいい。あれは釣りをするための都合のいい言い訳にしか過ぎない。
魚に傷をつけていることに変わりはない。痛くなくとも口が変形したり目を怪我したりして絶命してしまうことがあるのだ。
ではなぜこんな野蛮な遊びがこの国では縄文時代に端を発し江戸時代から娯楽として続いているのか。
それは人間の持つ野蛮さを理解する人がどれくらいいるかに関わると考える。
私たちサピエンスは太古より狩猟採集生活によって現代まで種を存続させてきた。その中で現代に生きる私たちのDNAには狩猟など(現代では仕事など)によって成功体験を得た場合、快感を覚えるようにプログラムされているのだ。
そのプログラムは種が存続する上で極めて自然なものなのである。
しかし現代の宗教的文化で発達した社会においては狩猟を行う必要など無い。
だから人間にとって可愛い生き物を殺そうものならその社会から疎外されてしまうのだ。
しかしこれも種の存続として自然である。なぜなら集団を形成し存続した我々は集団の規範を守れないものは集団を破壊する種として迫害することにこれまた快感を覚えるからだ。迫害し追放に成功した個体は周囲からの評価を受け社会的欲求が満たされる。
ただ、哺乳類から遠い種である表情も体温も無い魚類に同情できる人間は少なかったのでこれまで釣りが野蛮な趣味だとは言われてこなかっただけのことだろう。
人間はもともと野蛮で残忍な動物である。
ただ、文化的な理由で我々は感情によって弱い生物を大切にする動物でもある。
私はこれらがどちらも正しく、相反するものだとも思わない。
他の動物を痛めつけ過ぎるのも駄目だが、保護しすぎるのも駄目で、極めて複雑なグラデーションによるバランスが保たれていないといけない。
それが現在では人間の感情(動物保護派)が少しばかり優勢になっているのだと感じる。倫理上聞こえのいいものは賛同を集めやすい。考えなくていいからだ。
でもなぜ人間の野蛮さが現代でも失われないのか。それは先ほども書いた通り、人間が現代でも目的を達成する過程において役に立っているからだ。
人間の感情とプログラムの問題は、まさに神のみぞ知ると言ったところだ。
生き物は大切にしよう。それはもちろんだが人間が健康的に暮らすためには人間の本能も大切にしよう。ということだ、魚釣りはそこだけ切り取れば野蛮で残忍だが、人間が健康的に暮らすためにはある程度必要でもあるのだと思う。
結局都合のいいことを言っているようだが、釣りを禁止し、同じ考えのもと様々なものが禁止されていく社会は果たして健全なのか想像していただきい。
曖昧な結論にしかならないが、私の内面にあるモヤモヤのジャーナリングとして個人的には納得のいく結論になったと思う。
公開している理由は他者からの意見を是非聞きたいからだ。
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