陸日記

絶叫Z世代

ちゃんとおじさんになった。

私は、今日。ちゃんとおじさんになった。

もちろんなりたいわけではないが、なったようだ。

 

自分の評価というのは他者からの評価である。自己愛がどれだけの物であろうが、この事実は社会の中で生活する人間にとっては間違いないのだ。

私を野生児だと嘲笑する紳士淑女の皆様。私のような人間も人権を認められて税金も納めているのだ。その事実を持って私は厳密に言えば野生児ではないのだ。

 

おじさんになったようだ。と言ったのは、やはり他者からの評価を受けたということだ。

 

仕事を終え、小腹が空いたので近くのドラッグストアでお菓子でも買おうと入店した。

私はきのこの山が大好きだ。念の為に記載しておくがそれは、私の食性が猪と同じということではない。

 

ドラッグストアなどのディスカウントストアでは、通常200円ほどするきのこの山が半額の100円ほどで手に入る。それを買い溜めしておこうと1ケースカゴに入れた。

するとそれを見ていた少女。小学校低学年くらいだろうか。あろうことか私を指差し言い放った。

「おじさんが、お菓子めちゃくちゃ買ってる!」

一体何が不思議なのだ。大人とはそういうものだ。

 

少女は真っ直ぐな目で私をおじさんと言った。

私はおじさんになった。

 

確かに仕事の日の私は、寝起きのままの髪の毛で服も作業着で仕事がら薄汚れている。

ただ、普段は身なりには気を遣っている方だ。

私は少女にそのことを弁解したかった。しかし社会生活を送り、税金も納める文化人の私は、おじさんが少女に話掛けることがタブーであることは至極当然心得ている。

 

これまで私自身おじさんになった自覚はあった。

しかし、他人からおじさんと呼ばれたのは初めてだった。

 

少女の見上げた目線に映る私は。きのこを貪る猪だったのか。野生の猪というよりは野生のおじさんだったと考える方が自然だろうか。

 

お腹を空かして畑に現れて農作物を荒らす、猪や鹿、カラスなどの有害鳥獣のように。

少女にとっては、お菓子という作物を収穫するドラッグストアという畑に。

仕事を終え、彼女の生活であまり見ることのないお腹を空かした大きな獣が現れて、きのこを大量に奪い去っていくその姿は珍妙にして滑稽だったのだろう。

 

私はおじさんになった。

 

他者からの評価が自分の評価である。

どうかそのことを忘れないで欲しい。

私のブログを読んだ聡明な男性諸君。に伝えたい。

私達は皆おじさんだ。どう見ても。

 

と私からの勝手な評価をプレゼントし、当記事の締めくくりとさせていただきたい。

 

 

それでは皆様。お手を拝借。

おじさんになった。

【おじさん】この言葉は当たり前のように中年男性を指す際に用いられる言葉だ。

この言葉の持つエネルギーは大きい。

独特の匂いと、社会的に影響力が強いことが多いのに加えて、成熟した部分と幼稚な部分を併せ持つので取り扱いには細心の注意が必要で忌み嫌われるイメージだろう。フォントの色は黄味が強い茶色だ。

 

私は今年26歳になった。世間ではお兄さんと呼ばれる年齢であると思っている。

しかし、私自身おじさん化の現実を突きつけられることがある。

ある日、自分の車に乗り込んだ際、変な匂いがした。趣味や仕事で汚し過ぎたなとくらいにしか思っていなかったが。後日、自分の首の後ろ側が同じ匂いを発していたことに気が付いた。死ぬかと思った。

私は、

おじさんになった。。

 

ある日、コンビニで適当に雑誌や飲み物を購入しようと商品を手に取りレジに並んだ。

すると、前で会計をしている8歳くらいの女の子がお菓子の代金が200円程足りないらしく酷く焦り戸惑っていた。

私はその女の子の代金を自分の会計と合わせて支払った。いいことをしたなと思いながら、首の後ろの匂いのする車に乗り込み。ハッとした。

ここからは私の想像だが、彼女は親に今回の出来事を説明すると思うが。

その際、彼女は私のことをなんと呼ぶのだろうか。多分おじさんと言うだろう。

私は、

おじさんになった。。

もうラプンツェルは魔女側の視点で観るだろう。

 

人間は少年から青年へと進化するが、その後の中年(おじさん)になることは進化である人もいればその逆となる人もいる。

世の中の男性の99%は退化するためにおじさんになる。進化しない方が強いポリゴン2のようなポケモンが存在するがニンゲンもその仲間だ。

竹野内豊のようなニンゲンのメガ進化は実際に起こるが極めて稀な例である。

 

そもそもおじさんとは何だろう。

おじさんの定義は40歳くらいかららしい。

歳をとることは悪いことではないはずだ。むしろ素晴らしい生命の神秘だ。

もともとおじさんに悪いイメージが付いて回っていることがおかしいのだ。

それに竹野内豊もおじさんだ。 

 

それなのになぜ嫌われる存在なのだろうか。

忌み嫌われるおじが生息する国。日本では奥ゆかしさが美徳とされる。奥ゆかしさとは哲学的なので詳しくは知らないが、控えめであること。と考える人は多いと思う。

また、中身が大事と考える人も多い。

それとは対照的に、外見は中身の外側とは言い得て妙で、外見に気を使えない人間は中身にも気を使えないのだ。私の首の匂いも普段の食生活と運動習慣の吹き出物だろう。

私たち日本人は幼い頃からこれらが美徳とされる価値観で育ってきた。

そんな私たちには役職相応のエグゼクティブな振舞いや、かっこよく歳を重ねるというのは非情にもハードルが高い。

「日本にいるならおじさん化するのは仕方ないのか。」

この事実に気が付き、そう言いつつも諦めなかった人達だけが

おじさんになれるのだろうか。

 

 

やきとりの名門 秋吉

愛媛で美味しい焼鳥屋さんは?と聞かれると迷わずに私は、秋吉。と答える。

 

日本で108店舗展開している焼鳥チェーン

やきとりの名門 秋吉。

チェーン店と言うだけで何故か店の評価を下げる変態は多い。彼らは総じて男性経験の少ない女性を好み、女性の言う「こんなの初めて」に踊らされているに違いない。そんな彼等の批判は馬耳東風と聞き流して頂きたい。

 

私が秋吉の悪魔的な魅力に取り憑かれたのは12年前だ。未だに秋吉には月に3.4回通っている。

私は母子家庭で育ち。年に2.3回は父と遊びに出掛けることがあった。

その際父は何か食べたいものを言えばどこにでも連れて行ってくれた。私はいつも回転寿司希望だったが、中学生になり焼いたネギの旨さを知った。その頃から焼鳥のねぎまを食べてみたく父に焼鳥屋さんに行きたいと伝えた。

父には松山で名の知れた焼鳥屋に何軒か連れて行ってもらった。その中でも秋吉は頭3つほど飛び抜けて美味しかった。

ねぎまが美味いのは当たり前だ。串カツは何故かその辺の串カツ専門店よりも美味い。

これが秋吉にハマるきっかけだった。それからは毎回父に秋吉に連れて行ってもらった。

 

その後自分でお金を稼ぐようになり、自分のお金で秋吉の暖簾をくぐる。

「いらっしゃいませ!社長!お嬢さん!」

相変わらず活気のある店内で心地よいカジュアルさだ。

私は20~40名で行くことが多いがカウンターに通される。

今まであまり注文したことのなかった[純けい]を頼んだ。カウンターからスタッフが汗だくで純けいを焼いているのが見える。

400℃の炎で焼き上がる。表面はまだ脂が音をたてて暴れている。脂が炭火で焼けた香りが鼻腔を刺激する。見た目は普通の鶏肉だ。

猫舌だが、熱々の純けいを一口で頬張る。

頭が吹っ飛んだ。

 

 

 

数秒間の沈黙の後、私の頭はこの純けいを脳幹の奥で味わった。噛んだ刹那、真夏の制汗剤のCM級の爽快感さえ感じるほどに旨味が弾け飛んだ。しかも噛んだ瞬間だけなんてケチなことはしない。噛むごとに溢れ出してくる。

自分の唾液で手指の殺菌が可能なほどだ。

私はこんなの初めて!と言っただろう。

 

これが私の秋吉の2番目の衝撃だった。こんな美味いメニューを隠していただなんて。

とはいえメニューの1番頭に載っているのに、聞いたことの無い名前だったから私が注文しなかっただけなのだが。

 

それからお酒の味も覚え、ビールと焼鳥というオノヨーコとジョンレノン級の最強のマリアージュを楽しんだ。

友達と飲み。恋人と飲み。同僚と飲み。いつも彼等は「どこ行く?」と聞いてくる。

愚問だ。私は秋吉以外答えないことは彼等も知っているはず。みんな秋吉に行きたいのだろう。

彼等の「どこ行く?」は「秋吉でしょ?」と同義だと思っている。

 

そんな私も秋吉しか知らないで焼鳥を語っているわけでは無いことはご理解頂きたい。

松山には美味い焼鳥屋さんはたくさんある。名の知れた焼鳥屋、高級な焼鳥も一通り足を運んでいる。

その中でも最後に辿り着くのは秋吉なのだ。

美味い焼鳥はたくさんある。しかしこの純けいを超える焼鳥というのは私は食べたことがない。

例えるなら第二次世界大戦終戦直後のアメリカ。世界で一国だけが核爆弾を所有している状況だ。

旨さの核兵器。それが、やきとりの名門 秋吉の誇る純けいなのだ。

 

この超弩級の旨味の核爆発を経験したことのない人には是非食べて欲しい。

お勧めの焼鳥屋さんは。やきとりの名門秋吉だ。

この純けいを超える焼鳥があれば是非教えて頂きたい。私の人生は360度回転するだろう。

コーヒーの話

中森明菜はブラックコーヒーをたくさん飲むとテレビで見た高校生の私は頃ブラックコーヒーを飲んでむせ返した。

当時の自分にとっての飲み物の価値観をぶち壊す苦みと香りに打ちのめされたのだ。

出来れば缶に吐き戻してやりたいくらいだったが大人ぶって悔しさと共に飲み込んだ。

一生好きになれないと思った。

 

それから専門学生になりイタリアンでアルバイトを始めた。

その店ではスタッフ全員イタリア人の名前が付けられる。私は【エンリコ】になった。

かっこよくも面白くもない名前を貰った。

イタリア人の店長カルロスはお店のオープン前に必ず砂糖をどっぷり入れたエスプレッソをキめる。砂糖を入れ過ぎて少しとろみまで出るレベルだ。

エスプレッソがキまっているというよりもただの高血糖だろう。

カルロス曰くイタリアでは当たり前のことらしい。

ただ、その大きな後姿がなんだかかっこよく見えた。エキゾチックな異国の歴史と文化を感じた。ミ・アモーレ。これはブラジルの言葉でイタリアではない。

カルロスに憧れたエンリコは、オープン前に一緒にエスプレッソをキめるようにした。

最初は砂糖を入れずに飲んでみた。死んだ。

苦みの度を越えている。

おばあちゃんは昔私に言った。『苦いものは体にいい』だがそれは真理ではないことを知った。

惑い惑わされてカーニバル。それ以来私はニヒリズムに陥る。

カルロスは隣で嬉しそうにニンマリしていた。

 

次のバイトの日には砂糖をしこたま入れて飲んでみた。

これが不思議なくらいに美味しい。苦みと甘み両極端の間の嫌な味は打ち消されている。ギターの音で言うならドンシャリだ。

それからは毎日カルロスと一緒に甘味なエスプレッソを嗜んだ。

 

私の身体にも高血糖の症状が見え始めたころ、私はイタリアンのバイトを辞めて住宅会社に就職した。施工管理という職種だ。

休憩になると必ず職人さんから缶コーヒーを渡される。

現場の休憩とは缶コーヒーとたばこは阿佐ヶ谷姉妹レベルでセットになってくる。

私はコーヒーは飲めないままだったが、せっかく頂いたものなので日頃のストレスと悔しさと一緒に飲み込んでいた。

ある時、噎せ返るような暑さで喉も乾ききって、ストレスもピークに達していた時。

キンキンに冷えた缶コーヒーを頂いて勇気を振り絞り滝のように流しこんだ。

初めて美味しいと思えた瞬間だった。

やわな生き方を変えられない限り 限界なんだわ坊や と

私の中の明菜が発破をかけてくれたのか。

 

スターバックスでは必ずダークモカチップフラペチーノを注文していた私は、まだ苦味を半分だけ拒絶しながらいつしかブラックコーヒーを注文するようになっていた。

半分だけ大人の真似をしていた。

今では苦味も大好きになり、ブラックコーヒーを完全に制圧したと思っていた。

今でこそ仕事中はブラックコーヒーを1L飲む。

 

つい先日、今まで行かなかったような高級なカフェに行った。

私はアイスコーヒーを注文した。もちろんブラックで。

しばらく待って出てきたのは、なんだか色の薄いコーヒーだ。使用した豆の名刺のような物までついている。きっとこだわり抜いたアイスコーヒーだ。

一口飲んでみて交通事故に遭ったのかと間違えるほどの衝撃が走った。

酸っぱい。コーヒーとしてカテゴライズしてはならないほど酸っぱかったのだ。

私のコーヒー像は音を立てて崩れ落ちた。まるで歴史的建造物をダイナマイトで発破したようだ。

コーヒーという文化の奥深さにぶん殴られた。この酸っぱさを誰かが評価しているのだから。

いい加減にして!

 

 

SUP漂流記録

 

3/13 快晴 10℃ 凪 風速1m

私はSUP(スタンドアップパドルボード)にて釣りに出かけた。

出発場所は愛媛県伊予市の双海海水浴場 午前10:00

持ち物はコーヒー500ml、竿2本、ルアー等小物およそ5kg、スマートフォン

服装は2.5mmウェットスーツ ロングジョン型 ライフジャケット 

 

波も風もうねりも無く1年に1度あるかないかくらいの絶好のSUP日和だった。

もちろん事前に天気予報は必ずチェックしている。

 

狙いは産卵のために浅場に接岸してくる大型の真鯛だったがまだまだ水温は低く一匹も釣れなかった。

 

16:30急にショアに向けての風が吹き始める。風速は体感で4~5mほど

危険だと判断しその風に乗って岸を目指す。岸までの距離は500mも無いくらいだったと思う。

残り200m地点まで戻ってきたころ突如風向きが反転し、オフショアの風になった。

本当に一瞬の出来事だ。刹那的な突風かと思ったが風は止まずに強くなっていく。

体感で8mほどになった。その頃には波も1mほどになりSUPを進行方向に向けてもすぐに横に向いてしまう状態だった。

ひとまず一旦落ち着いてスマホにて天候の確認をしようと取り出した。この間もSUPは非情にも沖に向かって経験したことのない速度で流されていく。

スマホにて天候を確認したところやはり突発的かつ局地的に発生した風のようで反映されていなかった。自身の現在地と天候と低気圧の位置はこの時確認できた。

しかしスマホをしまおうとした瞬間SUPごと吹き飛んだ。体感でも覚えていないような凄まじい風だった。後日確認したがこの日の最大瞬間風速は25mだ。

 

一瞬のうちに海に投げ出され積んでいた道具のほとんどが海に沈んだ。

再乗艇は練習を何度も行っていたので荒れた海でも問題なくできた。

残った持ち物は残り200mlほどのコーヒーのみだった。

パドルとSUPと自分の身体は一本のロープでつながっているため無くならなかった。

 

スマホを紛失したことにより頭が真っ白になった。もう一度岸に向かって必死で漕ぐ。

しかし最初よりも風は強く波も立ち帰還できる気配はなかった。

この時初めて漂流するかもしれないと感じた。

漂流をするにもスマホが無く助けを呼べない。誰かが通報してくれる確信も無かった。

漂流するならおおよそ2日間は3月の海で生き延びならなければならないと思った。

 

それからも諦めずに約50分間必死でひたすら漕ぎ続けた。これまで2時間本気で漕ぎ続けるトレーニングは何度かしてきたが、50分漕いでも進んでいないと思った。

スマホがあればGPSで自分の現在地を確認できるため自分が進んでいるのか流されているのか確認ができる。この時は周囲の景色と自分の位置関係が見た感じ変化がなかったため進んでいないと判断した。

もしかするとぎりぎり進んでいたかもしれないのだが、これ以上漕いで体力を奪われ、たどり着けなかった時、残り200mlの水分では生存することはできないと判断した。

 

そして17:30頃漂流することを決めた。

この時の絶望感は鮮明に覚えている。パドリングを止めた途端にSUPの方向がくるりと180度水平に翻った。今まで50分程度漕ぎ続けた距離をわずか2分ほどで流された。

風下にはダッシュ島が見える。このまま漂流すれば6時間後にはダッシュ島に漂着するだろうと思った。その砂浜に穴を掘って体を埋めていれば低体温で死ぬことは無いだろうと思った。

漂流を始めてわずか数分で、これまで来たことがないような沖まで流された。波はすでに3mほどの巨大なものになっていた。SUPが転覆しないようにするのがやっとだった。

 

18:00 日没の時間が迫る。

薄暗くなっていく海の上で流されながら、夜間の漂流をどのように過ごすか考えた。

この段階ではダッシュ島が見えているが、そこは無人島であり夜間になると自分がダッシュ島に向かっていることを確認するすべがないことに気が付く。

一度水没したため体温もかなり下がっていた。ダッシュ島に辿り着ける確証も無い。

この段階で自分は死ぬんだろうと思った。何日かして水死体としてぶくぶくになった状態で発見されるのだろうと。死ぬと思ったというより死ぬのを受け入れていたという方が近い。

北に向かって流されている。東側の遠く25km先に航空機が離発着しているのが見える。松山空港だ。空港なら23:00ごろまでは明るいはずだ。

そちらに辿り着けば朝を迎える前には救助されるはずだ。

しかし南から吹く風を右側から浴びながら漕ぎ続けることになる。これはSUPやカヤックを体験したことがある人なら分かると思うが非常に危険なのだ。これらの乗り物は基本的に横からの波に弱い。

東側にどれだけ進んでも北側に流される進路になるので北東に向かって進むことになる。自分の進むスピードが遅ければ松山空港にはたどり着けずそのまま広島方面へ漂流するしかない。

それでもどうせ死ぬのなら伸るか反るか松山空港を目指すことにした。

 

19:00完全に辺りは暗くなり遠くの松山空港の明りと飛行機の離発着が目印となった。

ダッシュ島は既に確認できなくなった。

雨も降り始めた。体温が奪われていくのが手に取るように分かった。

何キロ沖に流されたかは分からないが波の高さはこれまで経験したことのない高さになった。時々SUPがサーフィンのようにうねりの上で滑る。ハイドロプレーニング現象だ。生きるか死ぬかの瀬戸際で私は初めて波に乗る快感を覚えた。しかし滑り始めると安定感が著しく落ちるのでなるべくサーフィンはしないように前重心で漕ぎ続ける。

 

そのまま約5時間漕ぎ続けた。遠くにあった松山空港が本当に少しづつ近づいている。

腕はパンパンで足も同じ姿勢のため感覚は無かった。

低体温症のせいなのか強烈な眠気にも襲われる。命がけだというのに眠気が勝つほどだ。

松山空港の目の前までたどり着いたが、空港の埋め立てはスリット状になっていて梯子も無い。考えてみれば滑走路内に侵入されることになるので当たり前だった。

スリット状の堤防に跳ね返った巨大な波が三角波になって何度も転覆寸前になるほどバランスを崩してくる。

そのまま無心で堤防の内側に回り込んだ。内側まで行くと波は嘘のように消える。

そこでやっと、なんとか生きては帰れるという確信を持った。静かとは言えない少し荒れた夜の港を漕ぎ進める。どこに着岸するべきか探すがテトラばかりで上がるところがなかった。さらに奥に行くと河口がありその中州に着岸できた。

 

岸には着いて安心したのだが、足の感覚が無く立つことも歩くこともできなかった。

加えてアドレナリンで抑えられていた低体温症の症状が突如襲ってきた。

これまで経験したことが無いほど体が震え物もつかめない。顎は冗談でもなく本当に奥歯が割れるのではないかと思うくらい、首ごと震えていた。

 

約20分ほどで足の感覚が戻ったのでSUP等はそのまま放置して救急車を手配してもらうために人を探す。

通りかかった軽バンに手を振ったが無視された。

想像してほしい。裸足でウェットスーツの男が土砂降りの雨の中徘徊しているのだ。関わりたくないに決まっている。

さらに濡れた鉄板の上を走ると滑って10年ぶりくらいにド派手にこけた。拍子に後頭部と腰を打った。

身体が浮いた刹那いよいよ死んだと思った。満身創痍の身体で転倒するというのは本当にキツかった。

想像してほしい。裸足でウェットスーツの男が土砂降りの雨の中鉄板の上で仰向けになっているのだ。

またしばらく雨の中を歩くと工場の門に守衛室があった。明かりもついている。

中にはやはり守衛さんがいた。救急車を手配してもらうよう頼んだ。

想像してほしい。裸足でウェットスーツの男が土砂降りの暗闇からぬーっと現れ半泣きで声をかけてくるのだ。恐怖だったに違いないが、飲みの席で笑い話にでもしていただきたい。

 

守衛さんは優しくずぶ濡れの見知らぬ男を自分の椅子に座らせてくれた。

約30分ほどで救急車が来た。担架に乗せられそのまま病院に直行した。

中度の低体温症と脱水症状だったが、ハイテクな毛布と点滴で2時間ほどで復活した。

 

今回の遭難の原因はスマホを落としたことに加えて未曾有の天候の急変だと思う。

安全装備にも問題は無く、天候も予報では万全だった。(2時間ごとの天気、気温、水温、潮流、風の方向までは事前に把握していた。)

アウトドアは必ず危険を伴う。それは誰しもが把握しているだろう。

しかし実際に危険な目にあった人は亡くなることが多いため情報が少ない。

今回私は偶然生還できたのでこのような記事を残すことにした。

SUPやカヤックフィッシングはもちろん海水浴中に遭難するケースだってある。そのようなときに少しでも冷静な判断ができるようお役に立てれば幸いだ。

危ないからやらないというのは自由だが、危ないからやるな。は賛同できない。その代わりに少しでも危険を回避するノウハウというのを共有したり現場で共助するのは自然の中で遊ぶ人間の責任だと思っている。

 

一応最初に投稿した記事も削除せずに残しているので、より詳細を読みたい人は一番最初の投稿を読んでみてほしい。

どうかアウトドアジャンキーの紳士淑女の皆様の人生が豊かになることを願ってこの記事を締めくくりたいと思う。

 

 

西祖谷2020年 夏

3年前の夏、私は紆余曲折。正真正銘無一文になった。自分の責任に他ならないので親含め、誰にも話さなかった。

そのせいで徳島県の秘境の西祖谷という地域でむせ返るような暑さの中、スコップを持って穴掘りをしていた時期がある。

わずか4週間、日当にして6000円前後だったと思う。それでも当時は大童になり藁にも縋る想いでありつけた仕事だった。

お金がもらえればそれでよかったのだが、その4週間は私にとってとても貴重な経験となった。

 

よくわからない紹介会社との電話のみで採用。

現場に着くと私と同じく日雇いの労働者が7人、現場の管理者が1人いた。

水道管を埋設するための穴をひたすら掘り続ける仕事だった。一般的には重機を使う作業だが、重機が入らないところなので人力で掘り進めるのだ。

 

そこにいた作業員を見てすぐに、私がこれまで関わってきた人とは違う世界の人達だと気が付く。

ボロボロに破けた作業着から除く刺青、大きな傷跡、歯も殆ど無く、目はあまり見えてないのか話すときは目が合わない。

酒とたばこの匂い。現場で酒を飲んでいる人もいた。

言葉は悪いが、これが底辺なのかと思った。

 

スコップと長靴が渡された。「あとは見て覚えて」と管理者は言い残し、すぐに現場を後にした。

自己紹介の時間なども無くすぐに作業に取り掛かった。

わけも分からないまま、他の作業員に続いて穴を掘る。

一輪車で土砂を運んだり、その他の雑用など。

汗が全身から吹き出す。頭から蒸発した汗がヘルメットに溜まり、下を向くとドバッと落ちて目に染みる。汗に濡れた土は一瞬にして元の色に戻る。

作業中もほかの作業員たちは真面目に取り組んではいるのだが、話し方はもごもごしていて私に指示を出すにも何を言っているのか分からない。

聞き返すと怒鳴られ、時には石や土を投げられたりスコップでしばかれたりもした。

親父にもスコップでぶたれたことは無いのに。

そんな彼等は記憶力も優れないのか休憩時間になると先ほどの怒りなど忘れたようにたばこ休憩の仲間に入れてくれた。

休憩中に談笑しても彼等はお互いのプライベートには踏み込まない。なにか暗黙の了解があるのだろうと感じた。

私もあまり質問などもしない。適当な相槌でその場を乗り切った。

私にとってこの仕事はあくまで繋ぎの仕事であり、彼等とは違う人間であるという意識があった。

 

3日に1人くらいの割合で同じような作業員が入ってくるが、次の日に来ないことなんて当たり前だった。

そんな仕事を何日かこなし2週間くらい経った時には私はそれなりに仲間として受け入れられたように感じていた。

休憩中は現場の水道で腕と頭を洗い暑さを凌ぐ。タバコに頭から滴る汗がついてしまいそうになる。手のひらを焼くような地べたに座り込んで、何人かで談笑していた時、一人が私に「こんなところさっさと出て行けよ。抜け出せなくなるから」と冗談交じりにいたずらな笑顔で言ってきた。

セミの声が勢いを増す。

 

 

ある日、昔からいる作業員のAが朝の時点でいなかった。

日払いの作業員にとっては1日仕事を休むということは、よっぽどのことがない限りありえなかった。

彼等は通信手段を持っていないため、休むには必ず前日に報告しないといけないのだ。

休憩時間に他の作業員に聞いても、誰もAの行方を知らない。

 

それから何日か経ったある日、他の作業員からAが自宅で一人で亡くなっていたことを聞かされた。

しかし彼についての話を誰もしたがらないのか、砂煙の地べたに座り込んで煙草を吸っているときも沈黙のままだ。

誰かが亡くなることが珍しくないのか。若しくは他人の領域に踏み込まない暗黙の了解の延長戦上にある気遣いなのか。私には分からず妙に腹が立った。

だがある時、一人がAについての昔の話をした。

Aはかつては一般企業に勤めて営業マンをしていたそうだ。その仕事のストレスで精神を病んでお酒に逃避したらしい。奥さん、子供には愛想つかされ一人になり。

交通警備や職人など様々な仕事をしたらしいが、お酒で長くは続かず、見つけたのがこの日雇いの穴掘りだという。

私はドラマの世界の話だと思っていたようなことが自分の真横で現実に起きていたという事実に恐怖した。

私は「自宅で一人なんて可哀想ですね。」と口にした。

すると一緒に休憩しているうちの一人が「それは違うぞ。」と語気を強めて私に言った。私はびっくりしたが彼は「あいつは自宅で死んだからすぐに気づいてもらえたんだ。幸せ者だ。ここがとんでもない場所だと思っているかもしれないけれど、それは間違っているからな」と続けた。

私は言い返せず。落とした灰が風にばらけて穴の底に落ちていくのを見ていた。

「ここは俺らみたいな人間にとっては楽園なんだよ」と誰かが言った。

私は恥ずかしい気持ちになりながら作業に戻った。

 

 

私が底辺、地獄だと思っていたこの場所は、彼等にとっては楽園だった。

私が彼等を勝手に底辺だと見下していたのを彼等は見抜いていた。

たった数週間働いただけの22歳の餓鬼に、亡くなった仲間の一人が底辺で人生を終えたと思われるのだけは許せなかったのだろう。

 

考えてみればそうだ。仕事の無くなった私には、自己破産、生活保護、犯罪に走るなど生きる方法はいくつかあったはずだ。それでもそれが嫌だからこの現場に来たわけだ。

人によっては死ぬという選択を取る人もいるだろう。そういう意味で言えば確かに当時の私の現状においては最良の選択。まさに楽園だったと言えるだろう。

 

それから数日して私は次の就職先が決まったためこの楽園を去った。

私の最後の日も彼らは普段と変わらなかった。

「頑張れよ」「もう会うことはないな」と言ってくれた。彼等なりの優しい別れの言葉だったのだろう。

 

途中で行方不明になった作業員達は、私の言う底にいってしまったのだろうか。

底を知らないのは幸せなのだ。

彼等はそれだけ教えてくれた。

彼等がまだ生きているか知るすべもないが、どこかで生きていると願いたい。

 

あの夏。私は本当にお金が無く。仕事はハードで、朝昼ご飯は買えず。夕食はスーパーの半額の糸を引く酸っぱい弁当。そんな生活がいつまで続くのか分からない恐怖が人生で最も辛かった。

 

ある日の現場の帰り道、私は自身の将来に絶望し諦めや情けなさの感情を抱えて、何度も大歩危の大きな橋から吉野川の激流を覗いた。濁りや泡やゴミで底は見えなかった。

当時の私は劣悪な現場を相対的に底辺だと決めつけ、川の下にこそ楽園があるのかも知れないと半ば本気で考えていた。

今振り返ると、あの橋と川の境界が最後の楽園と底の境界だったと私には思えてならない。

 

 

人生で初めて遊んだゲーム

お題「人生で初めて遊んだゲーム」

久しぶりのブログ更新となってしまった。

アクセス解析を見たところ、更新していない時でも訪問してくれている人がいることがとてもうれしい。

 

さて、ブログのネタが思いつかなかったので、お題を探す機能から表題を見つけた。

 

皆さんもゲームを買い与えられた時、とても嬉しい記憶として今でも覚えているのではないだろうか。

私が3歳ごろ最初に両親から買ってもらったゲーム機はゲームボーイだった。

ソフトは「川のぬし釣り3」

 

今の自分が釣り好きになったのはこのゲームの影響は大きいと思う。

北米での販売名は「Legend of the River King 」英語にするとストイックな雰囲気が出すぎている。

 

どんなゲームかというと、少年が病に倒れた妹を助けるために川の主を釣り上げる事を目的としている。

おかしな設定だがゲーム全体を通してハートフルな雰囲気だった。

 

この「Legend of the River King 」

確か最後までプレイすることはできなかった記憶がある。

いったいどのあたりまでプレイできたのか気になって攻略サイトを見てみた。

するとどうやら一番最初のステージで釣りをしていただけだということを知った。

当時鼻水垂れ流していた子供ながらにも自分の愚かさを悔やむ。

ポケモンでいうならマサラタウンで一生キャタピー相手に勝負を挑んで終わった状態だ。

しかし、攻略サイトを見るとどうも子供には難しすぎる内容になっているのだ。

魚を釣るには、ルアー、餌、フライの釣り方があり、竿や仕掛けも細かく設定されていた。

釣りをしていると様々な動物とバトルすることになるおかしな設定になっているのだが、敵はクモやコウモリなどの小さな物からヒグマまで丸腰で戦わなければならない。

私もヒグマと対戦していた記憶があるが、一撃で殺される。しかも最初のステージでヒグマが出現するのは容赦ない。

ポケモンでいうならマサラタウンバンギラスが現れるのと同じだ。

 

できるなら大人になった今もう一度プレイしてみたい。

いまなら魚を釣ることは簡単にできるだろうし、ストーリーも理解して攻略できるだろう。ヒグマさえ現れなければの話だが。

 

川沿いの村人の御用聞きをこなし、たらい一つで源流から河口まで川を下り、一本釣りのみで生計を立て、邪魔する者ならヒグマをもなぎ倒す。そんな屈強な主人公。

彼こそがLegend of the River King という意味だったのだろう。

その裏事実に気が付けたということをもって。このゲームは20年越しに、攻略したと言えるだろう。