rk_southsideの日記

絶叫Z世代

カヤックフィッシング


カヤックフィッシングの謎

 

なんでカヤックで釣るの?

カヤックフィッシングやSUPフィッシングをしているとよく言われる。

 

正直私にもあまりわからない。質問者を納得させられたことも無いとおもう。

いつも変な顔をされて話が終わる。

 

私も様々な釣り方を経験したことがある。やったことがある程度のことが多いが。

堤防、テトラ、河口、サーフ、船、小舟、地磯、沖磯、SUP、カヤック。海釣りでのフィールドは概ね経験したところではないだろうか。

 

これらの中でも私がハマって熱中したのはカヤックとSUPだ。これらはパドルフィッシングと呼ばれ、自力の動力のみで釣りをするところに共通点がある。

 

その次くらいに船釣りも好きだ。

その他の釣りも楽しいが、やはり岸からの釣りは魚次第なところが大きい。

岸から釣る場合はお魚さんがいなければどうにもならない。

もしそこにお魚さんがいたとして、釣れなかった場合でも、お魚さんがいなかったのかなと言い訳ができる。私も友人と岸から青物などを狙って釣れなかった時は、死ぬほど言い訳をする。

これが言い訳かどうか、本当に魚がいなかったのかいたのか。

答えはお魚さんしか知らないのだ。

 

しかし船釣りやパドルフィッシングにおける沖での釣りは、お魚さんとルアーがコンタクトしていないことはまず無い。

釣れなかった場合90%以上は自分の実力不足だ。

そのため釣れなかった時のショックは尋常ではない。

そんな時でも、一応私は言い訳をするが、この時の答えはお魚さんだけではなく、私も知っている。

 

これらの点はブラックバス釣りと共通する。ブラックバスは池や湖沼に生息しているので、沖での釣りと同じく釣れない理由は自分でしかない。

私はブラックバス釣りで育ったような人間なので沖での釣りにハマるのだろう。

 

これで沖の釣りにハマる理由が明らかにはなったが、なぜエンジン付きの船ではなく人力にこだわるのか考えてみる。

 

そこで私の思う、船釣りの嫌なところを列挙してみる。

決して船釣りを否定するわけではなくカヤックと比べての話だ。

一つは、乗船料が高額なところ。私はケチなのでこれはこれは大きな問題だ。

二つめは、船長がポイントを探すところ。釣ったというより釣らせていただいた感が大きすぎる。

三つめは、予約が嫌いであることと、人に気を使わないといけないところだ。

四つめは、釣れ過ぎることだ。この虚しさはぜひ乗って経験していただきたい。

 

以上が私が船釣りをあまりしない理由だ。とはいえ時々やりたくなる。嫌いなわけではない。

 

ここまでくると最大の難問。エンジン付きのミニボートではだめなのかと問われる。

これのデメリットは、カヤックとさほど釣果に差は出ないのに、準備片付けの手間が大きすぎるところだ。

私は釣りが大好きだが釣りに出かけ過ぎである。精神面は大変満たされるのだが、金銭面と体力は常に疲弊している。これは釣りジャンキーの方なら私の状況に深い理解を示してくれるだろう。

エンジンのメンテナンスや持ち運びの気合があれば、私はそのエネルギーで一瞬にして船の予約を取るだろう。

 

カヤックなどの人力の沖釣りのメリットは沖釣りの中で最も手軽だというところ。

そして、自分の知識と体力のみでお魚さんに忍び寄り釣り上げるタクティカルでテクニカルなジャンルなのだ。ブラックバスのポイント打ちのような非常に攻撃的な釣り方であるところが面白いのだと、これからカヤックフィッシングの魅力を聞いてくる人には伝えることにしようとおもったけどなんか気持ち悪がられそうなのでやっぱり言わない。

変な顔をされて話が終わるのはそういうことだったのか。

 

 

 

 

ちゃんとおじさんになった。

私は、今日。ちゃんとおじさんになった。

もちろんなりたいわけではないが、なったようだ。

 

自分の評価というのは他者からの評価である。自己愛がどれだけの物であろうが、この事実は社会の中で生活する人間にとっては間違いないのだ。

私を野生児だと嘲笑する紳士淑女の皆様。私のような人間も人権を認められて税金も納めているのだ。その事実を持って私は厳密に言えば野生児ではないのだ。

 

おじさんになったようだ。と言ったのは、やはり他者からの評価を受けたということだ。

 

仕事を終え、小腹が空いたので近くのドラッグストアでお菓子でも買おうと入店した。

私はきのこの山が大好きだ。念の為に記載しておくが、それは、野生児だからではない。

 

ドラッグストアなどのディスカウントストアでは、通常200円ほどするきのこの山が半額の100円ほどで手に入る。それを買い溜めしておこうと1ケースカゴに入れた。

するとそれを見ていた少女。小学校低学年くらいだろうか。あろうことか私を指差し言い放った。

「おじさんが、お菓子めちゃくちゃ買ってる!」

一体何が不思議なのだ。大人とはそういうものだ。

 

少女は真っ直ぐな目で私をおじさんと言った。

私はおじさんになった。

 

確かに仕事の日の私は、寝起きのままの髪の毛で服も作業着で仕事がら薄汚れている。

ただ、普段は身なりには気を遣っている方だ。

私は少女にそのことを弁解したかった。しかし社会生活を送り、税金も納める文化人の私は、おじさんが少女に話掛けることがタブーであることは至極当然心得ている。

 

これまで私自身おじさんになった自覚はあった。

しかし、他人からおじさんと呼ばれたのは初めてだった。

 

少女の見上げた目線に映る私は。きのこを貪る野生児だったのか。野生児というか、野生のおじさんだったと考える方が自然だろうか。

 

お腹を空かして畑に現れて農作物を荒らす、猪や鹿、カラスなどの有害鳥獣のように。

少女にとっては、お菓子という作物を収穫するドラッグストアという畑に。

仕事を終え、お腹を空かした大きな普段見ない獣が現れて、きのこを大量に奪い去っていくその姿は珍妙にして滑稽だったのだろう。

 

私はおじさんになった。

 

他者からの評価が自分の評価である。

どうかそのことを忘れないで欲しい。

私のブログを読んだ聡明な男性諸君。に伝えたい。

私達は皆おじさんだ。どう見ても。

 

と私からの勝手な評価をプレゼントし、当記事の締めくくりとさせていただきたい。

 

 

それでは皆様。お手を拝借。

鹿を轢いて思う事。

今日、帰宅途中に鹿を轢いてしまった。

今日の記事は人によってはショッキングなので閲覧注意とさせて頂く。

 

これまでタヌキを轢いたことはあったが大型の哺乳類となるとショックのデカさが桁違いだ。

 

私は年間5万キロほど走行する変人だ。それに加えて山道を走ることも多いのでこういう事故をいつかは起こす覚悟はあった。

 

午後7時。仕事を終え片道1時間半の通勤路の途中、山を2つ越える。その2つ目の山でのことだった。

日は沈み、街灯も他の車の灯りもない山道を走っていた。すると突然暗闇の中から何かが走ってこちらに向かってきた。あまりにも一瞬の出来事だったが、ヘッドライトに一瞬照らされた角があまりにも立派ですぐに鹿だとわかった。

しかしブレーキは絶対に間に合わない間合いから向かってきたので当然の如く衝突した。しっかりと。

自分の脳汁のせいか意外にも重量感や衝撃は感じず、何故かぶつかったはずの鹿が視界から消えた。

車の下敷きになったような感覚も無かったが、もしかするとと思って車から降りて確認しようとした。ところがドアを開け、足をつこうとおもったところで鹿が意識は無く瞳孔も開いて痙攣していた。

これはさすがに助からないだろうと思ったが、まだ生きているので道路脇の草むらの中まで、その大きな逞しい鹿を引き摺り入れた。

申し訳ないことをしたという思いで、もし死んでしまったら、車の上にでも積んで持って帰って食べようと思った。私は鹿肉が大好物であるが今回はそんな下心はなく、自責の念からの考えだった。

何もしてあげられることは無いが目の前で痙攣し、息がこのまま止まってしまいそうな鹿をただ撫でていた。

約15分くらいすると急によろけながら立ち上がり、私に目を合わせたりすることもなく、ヨタヨタと山の中に消えていった。野生の強さと美しさを目の当たりにした。同時に私は達成感というか束の間の充足感を味わった。

車に戻ってライトが壊れていたりしないか確認した。案の定バンパーには思いっきり穴が空いていた。この穴も衝撃を緩和してくれたに違い無いと自分に言い聞かせ帰路に着く。

 

人によっては野生動物を轢いたとて、そのまま無視して通過して行く人も多いだろう。私も以前タヌキを轢いた際は何も無かった様に走り去って行くタヌキをサイドミラー越しに確認し私も走り去った。

 

 

約2年前のことだが鮮明に脳裏に焼き付いたことがある。

また同じように車を走らせていた時のこと。

薄汚い白猫が道路に横たわっていた。薄汚くとも綺麗な白い毛には鮮血がまとわり付いている。普通なら避けて通り過ぎるが、その時は車のスピードを落とししっかりと猫を見た。

その白猫はまだ息があり、身体の1部は道路にへばり付いて一体化しているような状態だった。それでも頭をもたげ私の方をじっと見て目が合った。

私は猫が大好きだ。アレルギーがあるが家で飼っている。しかしあまりにも見慣れない猫の姿に本能レベルで込み上げる恐怖感というか不気味さがあり、自分に出来ることもないと。そのまま通り過ぎてしまった。

しかし、200mほど行ったところで、いてもたってもいられなくなり引き返し、車を知らない会社の駐車場に勝手に停めて白猫の方に全力で駆けた。

猫はまだ息があったが、先程よりも衰弱している。おそらく轢かれてまだ15分も経っていないくらいだろう。もう頭をもたげることも出来ないのか私の方を睨むこともしない。

車の中から感じた不気味さは白猫から死を感じるほど大きくなっていく。もう絶対に助かるはずのない猫をせめて道路脇に寄せてやりたかったが、怖くて触れられなかった。

頭の中では、猫が可哀想。せめていい形で終われるように何かしないと。私は一応人の心を持っているからしてやりたかった。しかし、身体は本能のままに死を恐れて、何かに引っ張られて止められるかのように白猫に触れることができない。

高所から飛び込みをする時の拒絶反応と似たような物だった。頭では大丈夫と分かっていても体が拒否するのだ。

古来より私達の祖先は死んだ仲間の近くには外敵などの危険があり、それを避けるように進化してきたのだろう。

私は結局何もしないまま。白猫の最期を路上で見届けた。ただ座り込んで白猫を見ていた。

死んだ後、猫を埋葬するか?せめて道路脇へ移動させるか?いろいろ考えたが白猫はもう死んでいる。先程の息のある白猫にも怯えて何も出来なかった私は。死んでしまった白猫からは、さらに自分の死の恐怖を感じ、当然触れることができず、結果そのままにしてその場を離れた。

 

読んでいる人は、どんな最低な人間なのだろうかと思うだろう。しかし本当にどうやっても触ることができなかった。そんな情け無い自分を後悔をしながら、たまにその出来事を思い出して今まで生きていた。

そんな中の今日の事故だった。痙攣する鹿を見て当時のトラウマとも言える白猫の記憶が鮮明にフラッシュバックする。

私は白猫の時と同じような恐怖を感じたが、前述したように自分ができるだけの事は出来た。

もしかすると今日の鹿も同じように鮮血を流し、もっと死を感じる状態だったら私は逃げ出したかもしれない。それでも結果としては鹿は生きて山に帰った。それだけで私のトラウマはまだ軽くなったような気がする。

自分の忌まわしい過去を浄化したような気持ちになる夜だった。

 

 

 

おじさんになった。

【おじさん】この言葉は当たり前のように中年男性を指す際に用いられる言葉だ。

この言葉の持つエネルギーは大きい。

独特の匂いと、社会的に影響力が強いことが多いのに加えて、成熟した部分と幼稚な部分を併せ持つので取り扱いには細心の注意が必要で忌み嫌われるイメージだろう。フォントの色は黄味が強い茶色だ。

 

私は今年26歳になった。世間ではお兄さんと呼ばれる年齢であると思っている。

しかし、私自身おじさん化の現実を突きつけられることがある。

ある日、自分の車に乗り込んだ際、変な匂いがした。趣味や仕事で汚し過ぎたなとくらいにしか思っていなかったが。後日、自分の首の後ろ側が同じ匂いを発していたことに気が付いた。死ぬかと思った。

私は、

おじさんになった。。

 

ある日、コンビニで適当に雑誌や飲み物を購入しようと商品を手に取りレジに並んだ。

すると、前で会計をしている8歳くらいの女の子がお菓子の代金が200円程足りないらしく酷く焦り戸惑っていた。

私はその女の子の代金を自分の会計と合わせて支払った。いいことをしたなと思いながら、首の後ろの匂いのする車に乗り込み。ハッとした。

ここからは私の想像だが、彼女は親に今回の出来事を説明すると思うが。

その際、彼女は私のことをなんと呼ぶのだろうか。多分おじさんと言うだろう。

私は、

おじさんになった。。

もうラプンツェルは魔女側の視点で観るだろう。

 

人間は少年から青年へと進化するが、その後の中年(おじさん)になることは進化である人もいればその逆となる人もいる。

世の中の男性の99%は退化するためにおじさんになる。進化しない方が強いポリゴン2のようなポケモンが存在するがニンゲンもその仲間だ。

竹野内豊のようなニンゲンのメガ進化は実際に起こるが極めて稀な例である。

 

そもそもおじさんとは何だろう。

おじさんの定義は40歳くらいかららしい。

歳をとることは悪いことではないはずだ。むしろ素晴らしい生命の神秘だ。

もともとおじさんに悪いイメージが付いて回っていることがおかしいのだ。

それに竹野内豊もおじさんだ。 

 

それなのになぜ嫌われる存在なのだろうか。

忌み嫌われるおじが生息する国。日本では奥ゆかしさが美徳とされる。奥ゆかしさとは哲学的なので詳しくは知らないが、控えめであること。と考える人は多いと思う。

また、中身が大事と考える人も多い。

それとは対照的に、外見は中身の外側とは言い得て妙で、外見に気を使えない人間は中身にも気を使えないのだ。私の首の匂いも普段の食生活と運動習慣の吹き出物だろう。

私たち日本人は幼い頃からこれらが美徳とされる価値観で育ってきた。

そんな私たちには役職相応のエグゼクティブな振舞いや、かっこよく歳を重ねるというのは非情にもハードルが高い。

「日本にいるならおじさん化するのは仕方ないのか。」

この事実に気が付き、そう言いつつも諦めなかった人達だけが

おじさんになれるのだろうか。

 

 

やきとりの名門 秋吉

愛媛で美味しい焼鳥屋さんは?と聞かれると迷わずに私は、秋吉。と答える。

 

日本で108店舗展開している焼鳥チェーン

やきとりの名門 秋吉。

チェーン店と言うだけで何故か店の評価を下げる変態は多い。彼らは総じて男性経験の少ない女性を好み、女性の言う「こんなの初めて」に踊らされているに違いない。そんな彼等の批判は馬耳東風と聞き流して頂きたい。

 

私が秋吉の悪魔的な魅力に取り憑かれたのは12年前だ。未だに秋吉には月に3.4回通っている。

私は母子家庭で育ち。年に2.3回は父と遊びに出掛けることがあった。

その際父は何か食べたいものを言えばどこにでも連れて行ってくれた。私はいつも回転寿司希望だったが、中学生になり焼いたネギの旨さを知った。その頃から焼鳥のねぎまを食べてみたく父に焼鳥屋さんに行きたいと伝えた。

父には松山で名の知れた焼鳥屋に何軒か連れて行ってもらった。その中でも秋吉は頭3つほど飛び抜けて美味しかった。

ねぎまが美味いのは当たり前だ。串カツは何故かその辺の串カツ専門店よりも美味い。

これが秋吉にハマるきっかけだった。それからは毎回父に秋吉に連れて行ってもらった。

 

その後自分でお金を稼ぐようになり、自分のお金で秋吉の暖簾をくぐる。

「いらっしゃいませ!社長!お嬢さん!」

相変わらず活気のある店内で心地よいカジュアルさだ。

私は20~40名で行くことが多いがカウンターに通される。

今まであまり注文したことのなかった[純けい]を頼んだ。カウンターからスタッフが汗だくで純けいを焼いているのが見える。

400℃の炎で焼き上がる。表面はまだ脂が音をたてて暴れている。脂が炭火で焼けた香りが鼻腔を刺激する。見た目は普通の鶏肉だ。

猫舌だが、熱々の純けいを一口で頬張る。

頭が吹っ飛んだ。

 

 

 

数秒間の沈黙の後、私の頭はこの純けいを脳幹の奥で味わった。噛んだ刹那、真夏の制汗剤のCM級の爽快感さえ感じるほどに旨味が弾け飛んだ。しかも噛んだ瞬間だけなんてケチなことはしない。噛むごとに溢れ出してくる。

自分の唾液で手指の殺菌が可能なほどだ。

私はこんなの初めて!と言っただろう。

 

これが私の秋吉の2番目の衝撃だった。こんな美味いメニューを隠していただなんて。

とはいえメニューの1番頭に載っているのに、聞いたことの無い名前だったから私が注文しなかっただけなのだが。

 

それからお酒の味も覚え、ビールと焼鳥というオノヨーコとジョンレノン級の最強のマリアージュを楽しんだ。

友達と飲み。恋人と飲み。同僚と飲み。いつも彼等は「どこ行く?」と聞いてくる。

愚問だ。私は秋吉以外答えないことは彼等も知っているはず。みんな秋吉に行きたいのだろう。

彼等の「どこ行く?」は「秋吉でしょ?」と同義だと思っている。

 

そんな私も秋吉しか知らないで焼鳥を語っているわけでは無いことはご理解頂きたい。

松山には美味い焼鳥屋さんはたくさんある。名の知れた焼鳥屋、高級な焼鳥も一通り足を運んでいる。

その中でも最後に辿り着くのは秋吉なのだ。

美味い焼鳥はたくさんある。しかしこの純けいを超える焼鳥というのは私は食べたことがない。

例えるなら第二次世界大戦終戦直後のアメリカ。世界で一国だけが核爆弾を所有している状況だ。

旨さの核兵器。それが、やきとりの名門 秋吉の誇る純けいなのだ。

 

この超弩級の旨味の核爆発を経験したことのない人には是非食べて欲しい。

お勧めの焼鳥屋さんは。やきとりの名門秋吉だ。

この純けいを超える焼鳥があれば是非教えて頂きたい。私の人生は360度回転するだろう。

コーヒーの話

中森明菜はブラックコーヒーをたくさん飲むとテレビで見た私は、高校生の頃ブラックコーヒーを飲んでむせ返した。

自分にとっての飲み物の価値観をぶち壊す苦みと香りに打ちのめされた。

出来れば缶に吐き戻してやりたいくらいだったが大人ぶって飲み込んだ。

一生好きになれないと思った。

 

それから専門学生になりイタリアンでアルバイトを始めた。

その店ではスタッフ全員イタリア人の名前が付けられる。私は【エンリコ】になった。

微妙過ぎる名前を貰った。

イタリア人の店長カルロスはお店のオープン前に必ず砂糖をどっぷり入れたエスプレッソをキめる。砂糖を入れ過ぎて少しとろみまで出るレベルだ。

エスプレッソがキまっているというよりもただの高血糖だろう。

カルロス曰くイタリアでは当たり前のことらしい。

ただ、その大きな後姿がなんだかかっこよく見えた。エキゾチックな異国の歴史と文化を感じた。ミ・アモーレ。それはブラジルの言葉でイタリアではない。

カルロスに憧れたエンリコは、オープン前に一緒にエスプレッソをキめるようにした。

最初は砂糖を入れずに飲んでみた。死んだ。

苦みの度を越えている。

おばあちゃんは昔私に言った。『苦いものは体にいい』それは真理ではないと思った。惑い惑わされてカーニバル。それ以来私はニヒリズムに陥る。

カルロスは隣でほくそ笑んでいた。

 

次のバイトの日には砂糖をしこたま入れて飲んでみた。

これが不思議なくらいに美味しい。苦みと甘み両極端の間の嫌な味は打ち消されている。音質で言うならドンシャリだ。

それからは毎日カルロスと一緒に甘味なエスプレッソを嗜んだ。

 

私の身体にも高血糖の症状が見え始めたころ、私はイタリアンのバイトを辞めて住宅会社に就職した。施工管理という職種だ。

休憩になると必ず職人さんから缶コーヒーを渡される。

現場の休憩とは缶コーヒーとたばこは阿佐ヶ谷姉妹レベルでセットになってくる。

私はコーヒーは飲めないままだったが、せっかく頂いたものなので日頃のストレスと一緒に飲み込んでいた。

ある時、噎せ返るような暑さで喉も乾ききって、ストレスもピークに達していた時。

キンキンに冷えた缶コーヒーを頂いて勇気を振り絞り滝のように流しこんだ。

初めて美味しいと思えた瞬間だった。

やわな生き方を変えられない限り 限界なんだわ坊や と

私の中の明菜が発破をかけてくれたのか。

 

スターバックスでは必ずダークモカチップフラペチーノを注文していた私は、まだ苦味を半分だけ拒絶しながらいつしかブラックコーヒーを注文するようになっていた。

半分だけ大人の真似をしていた。

今では苦味も大好きになり、ブラックコーヒーを完全に制圧したと思っていた。

仕事中はブラックコーヒーを1L飲む。

 

つい先日、今まで行かなかったような高級なカフェに行った。

私はアイスコーヒーを注文した。もちろんブラックで。

しばらく待って出てきたのは、なんだか色の薄いコーヒーだ。使用した豆の名刺のような物までついている。きっとこだわり抜いたアイスコーヒーだ。

一口飲んでみて交通事故に遭ったのかと間違えるほどの衝撃が走った。

酸っぱい。コーヒーとしてカテゴライズしてはならないほど酸っぱかったのだ。

私のコーヒー像は音を立てて崩れ落ちた。まるで歴史的建造物をダイナマイトで発破したようだ。これも明菜の仕業だろう。

コーヒーという文化の奥深さにぶん殴られた。この酸っぱさを誰かが評価しているのだから。

いい加減にして!

 

 

サツキマスという魚を求めた2023年 初夏

釣り人たるもの憧れの魚というものがいくつか存在するはずだ。

釣りのきっかけになったあの魚。

その場所にしかいないあの魚

伝統的釣り方で狙うあのSacana

記録に残るようなSacana

誰かとの思い出のあのSacana

一度はお目にかかりたいあのSacana

Sacanaを羅列するとMAXのラテン系ダンスチューン『Tacata』が脳内再生される。のは私だけだろう。

 

 

釣り人一人一人に何かしらのストーリーがあり、その到達点として憧れの魚が存在している。

 

私は比較的様々な魚種を狙う人間で。必然的に憧れの魚も多い。

その中でも【サツキマス】という魚を2023年は一つの目標としていた。

サツキマス https://sotoshiru.com/articles/91724より引用


幻の魚と言われるサツキマスだ。

このアラスカにでもいそうな魚が温暖な高知県で釣れるというのだ。

その事実を知った私だが2023年1月時点で、この魚についての知識はほとんど無い状態だった。

サツキマスはアマゴが海で成長し産卵のために川に遡上して来たものだ。

アマゴよりも大きく、体側の模様も薄くなり銀色の美しい輝きに変わる。

その姿は清流の宝石と称される。

CartierTiffanyBVLGARI、Vancreef、HarreyWinston、Satsukimasu

これらを世界6大なんとかと呼ぶ

 

高知県で釣れるという情報は入手したが一体どこの川で釣れるのかも分からない。

インターネットにも情報はほとんどない。

そこで比較的近場でアマゴの生息する。規模の大きな河川に狙いを絞った。

仁淀川四万十川だ。

 

結果は惨敗だった。圧倒的予算不足とメンタルの問題だ。

生息しているのかさえ分からない川で、正しい釣り方なのかさえ分からないまま1日中ルアーを投げ続ける修業を私は成就できなかった。

2月~7月まで合計5回の釣行を行った。度重なる遠征費用。タックルに予算を注ぎ込み過ぎたこと。ルアーを1日10本ほどロストしたこと。変なタイミングでカヤックフィッシングを始めたことが主な原因だ。

そのせいで一番狙い時だった6月初旬に全力で狙えずシーズン終了となった。

しかし、最近とあるショップでの店員さんとの会話でサツキマスの確実な生息域も分かった。来年は全力で6月に狙いを定めて万全の準備をして、どんなジュエリーよりも美しい銀色のサツキマスのブリンブリンを首から吊り下げ。

Show me what you got now Sacanaと叫びたい。