2022年10月半ば祖父が80歳で他界した。
私は母子家庭だったため休日や学校の後はよく祖父の家にいた。
祖父はいわゆる亭主関白で頑固で口数少なく沸点の低い人面倒な大人だった。
祖父の決まった席があり、いつ祖父の家に行ってもその席に座っていて祖母が家事などしているという感じだ。
祖父は体が悪くあまり動けないということもあるが子どもながらにその亭主関白ぶりには辟易していた。
そんな祖父も孫の私と兄のことは可愛がってくれていた。たまに気分がいい日には、ぶっきらぼうに私たちをぼろぼろの薄汚れた見たこともないような緑茶色の軽自動車に乗せて街まで連れて行ってくれて遊戯王を買ってくれたりした。車内では石原裕次郎をカセットテープで聴かされた。
特に車内での会話もない。それでも嬉しかったのは、祖父の愛を感じたからなのか、遊戯王が欲しかっただけなのかはわからない。
お酒を飲んで機嫌がよくなるとチャンスだった。腕相撲をして勝てば小遣いをくれるのだが勝ったためしはない。
祖父は狩猟やアユ漁が趣味で一度私と兄をそれに連れていってくれる約束をした。
私と兄は二週間まえくらいからかなり楽しみにしていたが、いざ当日祖父の家に行くと祖父がしんどいから中止だと言った。
そんな感じの気分屋だった。
そんな昔から元気がない祖父もコロナ渦になったころから体調が優れないようだった。
ある日家族と親戚が祖父の家に集まって外で焼き肉をした日。お酒を飲んで気分がよくなった祖父は普段言わない自分の理想を私に話した。
内容はアメ車に乗りたいだの、どでかい犬を飼いたいだのよくわからない話だった。晩年になっても価値観がいきった大学生と同じだったのは逆に無邪気でかわいらしい。
その半年ほど後祖父は急にやせ細り入院した。それからはコロナ渦だということで死ぬまで面会もできなかった。
コロナに対する世間の過剰なリアクションが嫌いだった自分にはかなり歯がゆい気持ちだった。
祖父がいよいよ死ぬという知らせを聞いたとき私はSUPで1人、海に浮いていた。
面会もできないので特にできることはなかったため自分の好きな場所にいた。
母と祖母は面会できるようで、状況を報告してくれていた。
それを時々見ながらSUPで釣りをしていたらまさかまさかの自己新記録の大型真鯛を釣り上げてしまった。
サイズは78㎝。文句なしの大型真鯛だ。祖父が死ぬ間際だという悲しさと自己記録を更新した嬉しさとで感情の複雑さはカオスという言葉では形容できないものになっていた。
祖父はその日確実に亡くなるだろうと母から言われた。
私は今日祖父が亡くなるのなら祖父の命はこの今日の太陽と同じ寿命なんだなとキモい解釈をしていた。
祖父の命が沈む秋の夕方17:30頃、釣りをやめてその日の太陽を海の上で見送った。
よく晴れた穏やかな日の綺麗な夕日だった。
その沈む夕日に私は『じいちゃんありがとう』と、マジで言った。海の上なので誰が聞くわけでもないが恥ずかしい。でも面会もできない祖父に対して自分のできる精一杯のことでこれくらい言わないと後悔すると思っての行動だった。
ところが祖父はその日は生き延び、それから二日後祖父は死んだ。
私が様々な感情を押し殺して言った感謝の言葉はいったい誰に向けてだったのだろうか。
翌日祖父の遺体が病院から祖母の家に帰ってきた。
私も急いで祖母の家に向かった。祖母の家には祖母と母とおじとマッサージ師のおばがいた。
祖母の家の玄関を開けると、おじが、じいちゃんは和室にいるから顔を見てあげなさいと言ってくれた。すぐに和室のふすまを開けると、祖母とマッサージ師のおばがいた。
マッサージ師のおばの前には顔に布をかけられ、布団に寝かされた祖父がいた。
おばは、お帰りと私に言いながら祖父の肩をマッサージしている。娘なりの愛情なのだろうと思って祖父の隣まで行き、顔を見ようと布をめくった。
まさかの母だった。うつ伏せの母がマッサージを受けているだけだった。
母が妹のマッサージの施術を受けている最中だったらしい。祖父とそっくりなくしゃくしゃな顔でお帰り!と言ってきた。のんきなものである。
祖父はさらに奥の和室にいた。いつも通り平和な祖父の家であった。